第一章「巡り行く風の中で」



 突如、ボクの頭に衝撃が走った。何だかよくわからないけど、硬

いものに思いっきりぶつかったのは確かだ。

「いたたたた・・・」

 視界が真っ白になるって、こういうのを言うんだろうなぁ・・・

 何が何だか分からないまま、額を押さえて涙を浮かべていたけれ

ど、そのうち、周囲の様子も次第に明らかになってきた。



「くっ・・・・・・お前なぁ、いきなり起き上がってくるんじゃな

いよ。これがわざわざ来てやった兄に対する仕打ちか!?」



 差し込む光に薄く染まった白い壁紙。窓際に所狭しと並んでいる

鉢植え。鳴らなくなった小さな柱時計が無表情に佇んでいる横には、

物置と化しつつある本棚。

 そこは、いつもと変わらないボクの部屋。床の方ではお兄ちゃん

が、今でもしつこくのたうっている・・・って、何よ!?

「お兄ちゃん!勝手に部屋に入ってこないでって言ってるでしょ!

!」

「何だよ、その言い種は。お前が8時を回っても起きてこないもん

だから、様子を見て来いって言われたんだよ」

「嫁入り前の乙女の寝込みを襲うなんて、もう最低!大体・・・」



 手元の枕を投げつけた直後、思考が停止する。今、確か8時って

いう単語が入っていたような・・・

 事実を確認する前に、身体が先に動いていた。鞄の中身を点検し

ながら素早く身支度を整えていく。

 生き物というのはよく出来ていて、繰り返した行動は無意識のう

ちに再現できる。制服に着替える前にお兄ちゃんを部屋から叩き出

していた所には、自分でも感心しちゃった☆

 簡易食を飲み下しながら玄関を走り抜け、そこで初めて腕時計を

確認。



「・・・今度こそ遅刻しちゃうよーーっ!!」



 とにかく走らなくっちゃ。風を貫いて音速の壁に迫るくらいに!



 朝の澄んだ空気を舞台に、アスファルトと靴底が軽快なリズムを

刻んでいく。全身が躍動し、更なる活力と酸素を求める。それを身

体で確認してから、ボクはさらに加速をかけた。



 3つ目の角を左に曲がり、道なりに真っ直ぐ走って見えてきた坂

を駆け上がり、ガードレールを正面から飛び越えた勢いで芝生を滑

り降りる。すぐ脇に見える河川敷の遊歩道がボクにとっての最速ル

ート。この道なら、橋の下を通っていて人通りも少ないし、信号や

交差点も無い。思う存分走れるんだ。

 8年越しの闘いを経て、今やボクのトップスピードは時速30Km

に迫っている。その辺を走っているような自転車には・・・

「あら、歩ちゃんじゃない。 こんにちは☆」



 そういえば、こんな人もいたんだったね・・・

 今、ボクの隣に忽然と出現したこの人は綿月流香さん。背中まで

伸ばした柔らかい髪を軽く留めて、いつも動きやすい服装をしてい

る。深みのある緑のクロスバイクが板についた、活発という言葉を

絵に描いたような人だ。全力疾走しているボクに並んでくるのは自

転車だから仕方ないにしても、その余裕がなんだか悔しい。

 お兄ちゃんの彼女さんである優季さんの親友でもあるんだけど、

ボクは訳あってこの人にあまり良い思いを抱いていない。この辺は

話すと長くなるから、また後で説明するね。



「こんな朝から何の用ですか?綿月さん」

「もう、歩ちゃんったら。そんなよそよそしい呼び方じゃなくって、

『流香(はるか)ちゃん』って呼んで欲しいな」

「ボクと綿月さんはそんな親しい間柄じゃありません」

「『一樹の陰 一河(いちが)の流れも他生の縁』っていう言葉も

あるよ」

「・・・・・・それ、何ですか?」

「つまり、見知らぬ人どうしが雨を避けて同じ木陰に宿り、同じ川

の水をくんで飲むのも、みな前世からの因縁であるってこと。とい

うことは、私と歩ちゃんがこうして同じ道を走っているのも、前世

からの因縁なのかもしれないし、そんな関係なら、名前で呼び合っ

てもいいよね☆」

「感心しました。高校に通ってない人の言葉とは、到底思えません」

「それは違うわよ。私の入った高校は通信制なの」

「でも、それって・・・」

「あら?歩ちゃん、スピードが落ちてるわ。お喋りに気をとられち

ゃったみたいね」





 いつもは細かいことなんか気にしないボクだけど、青い気分にな

ることだってある。例えば、せっかく誕生日に買ってもらった服を、

うっかり色落ちさせちゃった時。お小遣いを叩いて買った本で勉強

して、初めて作った水羊羹をお兄ちゃんに盗み食いされた時。

 まだ味見さえしてなかったのに、冷やしている間の一瞬の隙を突

かれた犯行だった。しかも、その後散々文句を言われ、それでも飽

き足らずに、学校で優季さん達にまで言いふらしたらしい。

 「こんな変なものを作る馬鹿が何処にいるっていうんだよ。もっ

と中身を考えてから作ってくれ。少なくとも、ブルーベリーとセロ

リだけはもう使わない事だな」なんて分かったような口ぶりだった

けど、元はといえば、礼儀知らずなお兄ちゃんが悪いんじゃないの。

 何処でも買えるような物なんて作っても楽しくないよ。ボクは、

自分だけの味を作ってみたくて、あの本を買ったんだよ。お兄ちゃ

んにはこれ以上何を言っても・・・って、そんな事を話してるんじ

ゃなくて・・・とにかく、ボクにも落ち込むことくらいはあるって

こと!

 ちょっと傾いてきた日を眺めながら街角を歩いている今も、そん

な気分だった。だって、入学式以来、2度目の遅刻をしてしまった

んだもの・・・



ぽんっ――



 ふと背中を後押しする、優しい手。

「何があったか知らないけど、沈んだ足取りなんて歩には似合わな

いよ☆」

「紗織・・・」

 たっと前に回り込み、ちょっと背を傾けて目線を合わせてる、こ

の人は水際紗織(みぎわ さおり)。笑顔がとっても素敵な17才

で、その瞳から好奇心がなくなることは無い。ちなみに、紗織には

沙夜っていうお姉さんがいる。沙夜さんは、ボクが学校帰りにアル

バイトをしているお店を切り盛りしていて、その縁で知り合ったん

だ。



「『流れた涙は小瓶に詰めて 雨に濡れても気にせずに踊ろ』、な

んてね☆」

「えっ!?・・・・・・うん・・・そうだったね!」

「まさか、自分に励まされるなんて思わなかったでしょ」

「でも、知らなかったな。紗織って歌も結構いけるじゃない。練習

したら、きっと伸びると思うよ」

「歩が歌ってたのを真似してみただけだよ。大体、この歌だって歩

が作ったんだから、お姉さんは何もしてないよ〜」

「また、そんな風にはぐらかすんだから。紗織って、実は照れ屋さ

んなのかな?」



 こうして、2人でいたずらっぽく笑った後、少し先にある交差点

を曲がって裏通りに入っていく。

「ふむふむ・・・なるほど。その、『お兄ちゃんもどきが無謀にも

謎の大怪獣に立ち向かう夢』がそもそもの原因なんだね」

「そう・・・・・・なるのかな? 綿月さんが話し掛けてくるのは、

いつものことだからね。ところで紗織、何さっきからボクの顔を見

てるの?」

「ふ〜ん、歩がそんな属性だったとは知らなかったな〜☆」

「ちょっと!!そういう、何だかよく分からないけどいわくありげ

な業界用語は使わないでよ。他人様に誤解されちゃうじゃないの」

「いったい何を誤解するのかな〜?」

「・・・・・・ボクの口から言わせたいみたいね」

「分かるよ。誰にでも、言いにくい事って、あるよね。ごめんね、

歩の気持ちに気付いてあげられなくって・・・」

「あっ・・・・」

 肩に回された手が不意に引き寄せられ、思わず紗織の胸に抱かれ

る体勢になってしまう。紗織って、結構大きかったんだね・・・

「歩・・・お姉さんも、歩のこと大好きだよ。でも、今はそれだけ

じゃ・・・駄目なのかな・・・・・・」

「もういいっ!」

 顔を赤くして腕をすり抜ける。全く、紗織って、こういうのが大

好きなんだから・・・



 昔のものへと変わりつつある街並みの中に、一つだけ、周りと馴

染んでいない店がある。塗りなおされたばかりの壁に、ただでさえ

狭い駐車場を半分にしてまで増築した温室。1階だけふた回り大き

くなっている窓といい、「とにかく、気合で自分好みに改築してみ

ました」と、全身で主張しているような外見をしている。そして、

白木に味のあるタッチで ”Leaflet” と刻まれた看板――

 ここが、ボクのアルバイト先の花屋兼雑貨店「リーフレット」。

ちなみに、2階の部分は紗織と沙夜さんの住居になっている。



 店のいたるところに鉢植えが置かれ、温室では花々が咲き誇って

いる。それらを見渡せるように、中央には白いテーブルと椅子が置

かれている。壁に並んでいる水彩画は紗織が描いたもの。店に飾っ

ても恥ずかしくないどころか、知らない人が画家のものと勘違いす

るくらいの出来。ああ見えても、紗織は全国規模のコンクールで金

賞を取るほどの腕を持っているんだ。その一方で、同人誌の編集者

という裏の顔を持っていることについては、殆ど知られていない。

 沙夜さんは、カウンターの奥で手作業を進めていた。ドアに付け

た小さな鐘の音に対して一瞥もしない。きっと、後ろの棚で売って

いるアクセサリを作ってるんだ。この店では、売れ残った花や草木

を使ってポプリや押し花などをつくり、売り物にしている。それを

目当てにくるお客さんも結構いるようだから、経営が軌道に乗るの

もそう遠くはないだろう。



 さすがに制服のままだとまずいので、紗織の部屋を借りて普段着

に着替え、エプロンを付ける。お花屋さんっていうと優雅に聞こえ

るかもしれないけど、実際は商品の陳列や水遣りなどに追われるし、

体力も要る。

 このアルバイトも、最初は優季さんみたいにお淑やかな人になり

たくて始めたんだけど、実はその目的から離れているのかも・・・



 お客さんが来たら、笑顔で迎え入れる。少しでも、此処で楽しい

時を過ごして欲しいからね。

「いらっしゃいませ〜☆」

「素敵なお店ね。これなら、毎日でも来たくなっちゃうな」

「優季さん!? それに、お兄ちゃんまで!」

「実は、一度行ってみようと思ってたんだ☆」

「残念です・・・ひとこと言ってくれていたなら、お茶を淹れて待

ってたのに」

「そんな、気を使わなくてもいいよ。今日は長くいられないから」

「お前、優季の前では猫かぶってないか?」

「なっ・・・」

 こんな時に、なんて事を・・・恥ずかしさと怒りに、思わず力が

入る。

「この人達、知り合いなの?」

 沙夜さんの問いかけに、行き場を失った左手を持て余す。

「どうしようもない身内に、対照的な彼女さんです」

「そんな・・・彼女さんだなんて。そんなのじゃないよ・・・」

「そう願いたいわね。この程度の男にとろけてるようだと、ろくな

人生送れないわよ。私は沙夜。この店の経営者といえば聞こえは良

いけど、実際はね・・・」

「初めまして、沙夜さん。砂倉優季です。優季って呼んで下さい」

「優佳です。ああいう不出来な妹ですが、よろしくお願いします」

「来てくれてありがとう。これ、持っていってもいいわよ。」

 あまり興味無さげに髪を掻き上げながら沙夜さんが差し出したの

は、幾つかの木の実と葉を紐で結びつけた、少し寂しい感じの小物

だった。

「幸運をもたらすお守りよ。肌身離さず持っていることね」

「ありがとうございます☆」

「へぇ、こんなの初めて見ました。どれくらい効くんですか?」

「お兄ちゃんったら、なに失礼な事訊いてるのよっ!」

 左手がさっき用意したものの3倍の威力でヒットする。礼儀知ら

ずにも、限度があるんだよ。

「答える前に結果が出たけれど、それは持ち主次第ね。少なくとも、

私のは本場直伝のウィッチクラフトだから、理論や製法は間違って

いないわ」

 海外に住んでいたとは聞いてたけど、あのおまじないって、本当

の魔術だったんだ・・・

「お姉ちゃんって、修行中は天才魔法少女って呼ばれてたんだよ」

「今も、でしょ」

 いつの間にか下りてきた紗織が首を突っ込んでくる。

「こんにちは〜☆ 沙夜の妹の紗織だよ。『紗織お姉さん』って呼

んでね。『紗織お姉ちゃん』でもOKだよっ!」

「紗織お姉さん、こんにちは☆」

「・・・・・・・・・」

 紗織のノリに固まっているお兄ちゃんとは対照的に、完全につい

てきている優季さん。この瞬間、ボクの中の優季さんは音を立てて

壊れていった。

「そこのお兄ちゃんも、優季ちゃんと一緒に、『紗織お姉さん☆』

って、呼んでみようよ。さもないと、ストレッチパワーでお仕置き

だよっ」

「その指先は・・・まさか・・・・・・!!」

「紗織ってば、あまり変なこと言ってお客さんを困らせないでよ。

来なくなっちゃったらどうするの?」

「くふふ☆それもまた一興・・・・・・なんて、冗談だよ。紗織、

素直だから、お姉ちゃんの言うことなら何でも聞いちゃう☆」



「また来るね、紗織お姉さん☆」

「さ、さようなら・・・・・・紗織お姉さん・・・」

 そんなこんなで2人も帰って、ボクも、暗くなる前には帰りじた

くを始める。最近は夜道が怖いからね。

「優季ちゃん、かわいかったよね。お姉ちゃんはどう思う?」

「別に。どうせ冷やかしよ」

 今日の売り上げをノートパソコンに入力する沙夜さんと紗織に挨

拶をして家路につく。何の気もなしに伸びをすると、ちょうど夕空

が藍色の光を纏って沈み行くところだった。



 どこまでも大きな空の下には、色々な風が吹いている。さわやか

なものや暖かいもの。澱んだものや冷たいもの。みんな違ったもの

を乗せて、違った人やものを巻き込みながら流れてゆく。時に、ひ

とつにまとまる事もあれば、互いにぶつかりあって消えてしまう事

もある。

 その中で、誰にも例外無く吹いているのは、時の移ろいを乗せて

巡り行く風。ボクは、決してただ流されてはいかないけれど、かと

いって、無駄に逆らったりもしない。だって、どんなに手を広げた

って、風は掴むことができないもの。

 でも、吹き散らされて離ればなれになったとしても、強い想いが

つながっていさえすれば、きっとまた会う事ができる。ボクは、そ

う信じてる。風を掴むことは出来ないけれど、風を辿っていくこと

なら、ボクにだって出来るから・・・


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