第三章「想いを乗せる風」 前編



流れた涙は小瓶に詰めて

雨に濡れても気にせずに踊ろ

切れた絆は結び直して

あの人と共に明日へ歩こう――





 その日も、ボクはいつものようにリーフレットで花の手入れに取

りかかっていた。花が元気に咲いているのを見ていると、ボクの方

も気分が良くなってくる。つい、今みたいに歌ってしまうんだ。

 この歌はボクが適当に作ったもの。お兄ちゃんは「恥ずかしい内

容だから歌うな」なんて言ってるけど、ボクは割と気に入ってる。

詩にしてはちょっと短すぎるのが難点だけどね。

 ちょうど、紗織がチラシを配り終えて戻ってきた。さっき大量に

持っていった割には随分と早い。

「紗織、あれだけの量を一体どうやってさばいたの? ボクだと、

駅前でも3時間はかかっちゃうよ」

「歩もまだまだ人生経験が乏しいね。ここはひとつ、紗織お姉さん

がチラシについて熱く語ってあげようか」

「別に、配り方だけでいいよぉ」

「そんな事を言ってるようでは、歩は一生かけてもチラシを極めら

れないね。断言する」

「ちょっと待ってよ!どうして、ボクがチラシに一生を捧げなくっ

ちゃいけないの!?」

「手相はそう言ってるんだけどなぁ・・・」

 思わず手のひらを見てしまったけど、ボクが見ても分かる訳がな

かった。

「ウソだよ☆」

「紗織・・・、今日限りで友達やめてもいいかな?」

「そんなに怒らなくてもいいのにぃ・・・。お姉さんは、歩のこと

が好きだからやってるんだよ・・・」

「とにかく、最初の質問に答えてよ。それで許してあげるから」

「歩のことだから、どうせいつも駅前でチラシ配ってたんでしょ」

「だって、いちばん人通りが多いんだもの。商店街ではもう名前が

知れてるしね」

「そこが甘い。駅前が常に最善の場所とは限らないんだよ☆」

「そうなの?」

「確かに、歩が来ている時間帯には若い子が多いよ。その世代には、

多少時間がかかっても駅前で配るのが効果的だけどね」

「だったら、これでいいじゃない」

「問題。最近のガーデニングブームに最も染まっている年齢層は、

どの辺りでしょうか?」

「そんな詳しいこと知らないよぉ」

「中年以上の人達だよ。それを知っていた紗織お姉さんは、公園や

病院、河川敷のゲートボール場などで手当たり次第に配った後、駅

前である程度さばいた残りを帰る途中で郵便受けに入れてきたので

す☆」

 それって、効果的かもしれないけれど、ただ迷惑なだけのような

気がするなぁ・・・

「歩はもっと新聞を読んで時代の流れを知った方がいいよ。これか

らは、毎日うちで経済紙を読むことだね」

「ボク、楽譜とかを見るのは割と好きだけれど、ああいうのは苦手

だよ」

「そういえば、歩の歌、前よりもずっと上達しているね。うちでア

ルバイトなんかしてないで、街で歌ってた方がお金になるんじゃな

いのかな?」

 紗織・・・さっきから、沙夜さんがカウンターから見ているんだ

けど、それには気付いてる?

「紗織、それって、私の経営方針に対する抗議なの?」

 ほら、やっぱり聞こえてた。

「そんな事、気にしないで結構です。ボクは、もともと押しかけで

ここに置いてもらったんですから。お金なんてもらわなくてもいい

くらいですよ」

「優しいのね、歩は・・・どうせうちは零細自営業よ。妹にまで言

われるなんて、とうとうお仕舞いね・・・」

「ちがうよ!お姉ちゃんのお店に、紗織がケチつける訳ないじゃな

い」

「けど、歩が仕事を覚えてきたのは確かね。売り上げも安定してき

たから、ちょっとなら上げてもいいかな・・・」

 

 こんな風に、紗織はボクの歌をよくほめてくれる。でも、これく

らいの人は他にも大勢いるんだ。もっと、力を付けていかないとね。

「ボクなんて、まだまだ未熟だよ。ピッチの精度や感情移入には、

それなりに自信があるけれど、ボクの声には今ひとつ芯が入ってい

ないの。時々頼りない感じになったり、声域によって声が震えがち

になるのも、そのせいだよ」

「それなら、大きな声でしっかり歌えばいいじゃない」

「静かな感じの曲が歌えないよ。それに、小さな声量でも、身体を

しっかり使えばいい声は出せるんだよ」

「ふ〜ん。よく分からないけど、歩も努力してたんだね」

「紗織はいいよ。最初から声に張りがあるんだから・・・」



 そうこうしていると、優季さんが嬉しそうにお店に入ってきた。

「こんにちは、今日も元気な優季です☆」

「優季ちゃん、今日も来てくれたんだね☆お姉さん、すっごくうれ

しいな〜☆」

 うちに来るようになってから、優季さんはずっとこの調子で通し

ている。最初はちょっと驚いたけれど、今ではボクも「これが本当

の優季さんなのかな?」って思えるようになった。それでも、紗織

と手を取り合って踊るのはちょっとやめて欲しいかも・・・

「これ、おすそわけです。どうぞ、楽しんでくださいね☆」

 覗き込むと、パウダー状の白い粉が、そのままシャーレの中に盛

られていた。

「牛乳から5日かけて単離した乳糖です。化学名は『らくとーす』

っていうんですよ☆」

「優季さん・・・その容器・・・」

 思わず口を突いた言葉に、優季さんは改めて手元を見下ろし、初

めてこの事に気付いたようだった。

「あっ!ごめんね。大漁だったから、乾燥してすぐに持ってきちゃ

ったの」

「わぁ・・・きれいだね・・・さっそくお茶を始めようよ☆お姉ち

ゃんも、いいよね☆」

「私はそうも言ってられないわ。3人だけで始めてよ。なるべく、

お客さんの邪魔にならないようにしてね」

 こうして、準備が手際よく進んでいく。その途中に綿月さんが手

焼きのクッキーを持って来てくれたから、期待は更に高まっていっ

た。



 今日のメニューはミルクティー。あらかじめお湯で湿らせておい

た茶葉に、少しだけお湯を注いで濃い目の紅茶を淹れる。紅茶の香

りが湯気と一緒に漂いはじめ、テーブルを中心に幸せな気持ちの空

気が広がっていった。

「いい感じになってきたね。優季ちゃん、そろそろ入れようか」

 今日は砂糖の代わりに優季さんの乳糖を入れる。これに、温めた

ミルクを注ぐとミルクティーの出来上がり。

「くすっ・・・美味しくなあれ☆」

 優季さんは、いつもこうして最後に幸せな声で一言添える。これ

が料理を美味しくする決め手なんだって。

「美味しいに決まってるよ。だって、優季ちゃんの心がひとつまみ

入ってるんですもの☆」

「優季さんが、5日もかけて作ったんですよね。どうやって分けた

んですか?」

 ボクの質問に、優季さんは変わらぬ笑顔で答えてくれた。

「それは、知らない方がいいよ☆」

 ボクの心に、ふと不安がよぎる。

「大丈夫。純度はちゃんと確認してきたし、万一の事があっても、

舐めた位でどうこうするような物は使ってないよ」

 余程自信があるのか、優季さんはそのままミルクティーを温めた

カップに注いでいく。でも、優季さんの「大丈夫」は普通の感覚と

は少し違うような気がするなぁ・・・

「とにかく、特製のミルクティーとお菓子が揃ったんだから、あま

り気にせずに始めようね」



 まずは、みんなで優季さんのミルクティーを一口含んでみる。

「ふぅん・・・あまり、甘くはないんですね」

「いつも使っているお砂糖よりはね。糖類の中でも、甘味が強いの

はショ糖やブドウ糖、果糖といったあたりかな。それに比べたら、

乳糖の甘味は少し弱いかもね」

「今日の紅茶は特別に美味しいよ。これも、優季ちゃんのおかげだ

ね☆」

 そして、手元のクッキーを口に運ぼうとした時、10才くらいの

女の子と目が合った。遠慮がちな横目でボクの左手をものほしそう

に見つめている。よく忘れてしまうんだけど、此処ってお店の中だ

ったんだね・・・

「あの・・・、これ、よかったらキミにも・・・」

「くれるの!本当に!?」

「う、うん・・・。くっきー、だけだよ・・・」

 その勢いと視線に思わず身を引いてしまう。だって、この子、い

ま本気でボクまで食べてしまいそうな気配を発したんだよ。

「歩、変に情けなんか掛けちゃ駄目。そんな事をしたって、後で2

人とも傷つくことになるんだよ」

「紗織・・・そんな事言ってるけど、この子、犬や猫じゃないんだ

よ。それに、せっかくだから、お客さんにも分けてあげようよ」

 紗織の発言がまるで聞こえていないように、その子はクッキーを

一口かじる。そして、至福の表情を浮かべた次の瞬間、椅子から床

に倒れこんでしまったんだ!

「きゃっ!・・・どうしよう!?私のミルクティーのせいじゃない

よ!」

「優季さん!誰もそんな事いってないです!」

「るかちゃん!!そのクッキーに何を入れたの!?素直に話せば、

罪は軽くなるんだよ!」

「私のクッキーのせいなの!?」

「この倒れ方は食中毒じゃない!即効性の睡眠薬よ!」

「そんな・・・優季ちゃんまで、私のことを・・・」

「綿月さん、もう、手遅れなんです。そもそも、何を目当てにこん

な事をしたのですか?」

「私は・・・確かに、優季ちゃんの寝顔を見て『かわいい』って思

った事はあるよ・・・でも、決して優季ちゃんにそんな事はしない

・・・絶対にしないんだから・・・」

「そういえば、紗織、優季さんが初めてお店に来たときに言ってた

ね。『優季ちゃん、かわいかったよね』って・・・」

「違うよ!紗織は何もしてないよ!」

「あっ!紗織お姉さん、いま一人称が変わったよ!」

「お姉さんは何もしてないよ!そんな事をいうなら、この子に直接

クッキーを手渡した、歩が一番怪しいんだからね!!」



 非理性的な発言が飛び交う中、1人だけ混乱を逃れていた沙夜さ

んがその子を診る。顔を覗き込み、その後に脈を取ると、沙夜さん

はそのぐったりとした身体を抱え上げた。

「気を失っているだけよ。それに、微熱もあるわね。何があったか

知らないけど、私の部屋にでも寝かせておくわ」

「お姉ちゃん、別に、紗織の部屋でも構わないよ☆」

 紗織はこう言ってくれたけれど、みんなの気持ちは同じだった。

「あんな危ない部屋は、絶対に駄目っ!」

 紗織以外の全員の声が見事に揃った。ここまでうまく揃ったのは、

これが最初で最後のことだろうね・・・





 翌日、ボクたちはその子の様子を見る為に集まった。今日は、お

兄ちゃんも一番後ろに立っている。こんなお兄ちゃんでも何かの役

に立つかもしれないからね。

「あの子、気が付いたのはいいけれど、それからはひとことお礼を

言ったきり。殆ど口をきいてくれないのよ」

「でも、食欲だけはあったよね☆」

「あれはただの疲れ過ぎよ。まだ身体が思うように動かないみたい

で、今はおとなしく部屋で寝ているわ」

 綺麗に改築された1階と違って、2階にはまだ古びた木造建築の

色合いが残されている。紗織はその辺りを絨毯や壁紙を使ってうま

く隠しているけれど、それ以前に、紗織の部屋は本棚や机、更に画

材道具などが本格的に揃っているから、作業場としての印象がどう

しても隠しきれない。

 それに対して、沙夜さんの部屋は、あまりお金を掛けずに元の風

合いを生かしていくタイプ。その場に合った花瓶や家具がピンポイ

ントで置かれていて、簡素ながらも調和のある空間を作り出してい

る。

 その中にあって、あの子はだぶだぶのパジャマ姿(ハムスター柄)

でベッドにその身を横たえていた。

「沙夜さんの趣味って、よく分からない・・・」

 優季さんのつぶやきを、沙夜さんは聞き逃さなかった。

「あれは紗織の服よ!少しは常識で考えなさい!」

「あはは・・・。ちょっと言ってみただけですよ〜」

 優季さんは笑顔でごまかそうとしていたけれど、その頬には冷や

汗が浮かんでいた。

 その子は黙ってボクたちの様子を見ていたけれど、ボクと目があ

ってから、初めて言葉を発した。

「くっきーのお姉ちゃん・・・」

 確かに、ボクもまだ名乗ってなかったけれど、その呼び方は、ち

ょっと・・・

「名前、まだ言ってなかったね。ボクは歩。キミは、何て言うのか

な?」

「私・・・、軽刃瀬菜(かるは せな)・・・。猫を探していたの。

とても大切な・・・」

「よろしくね、瀬菜ちゃん。私は流香。あのクッキーを焼いたのは

私なの。『るかちゃん』とか『綿月さん』って呼ぶ人もいるし、『

くっきーのお姉ちゃん』でもいいけれど、『流香ちゃん』って呼ん

でくれた方が嬉しいな☆」

「瀬菜でいい・・・。そう呼ばれるの、恥ずかしいから・・・」

「なるほど。やっぱり、最初に食べ物をくれた人が主人になるもの

なんだね」

「ちょっと、紗織!猫じゃないんだよ!」

「しかし、これで後は耳さえついていれば・・・」

「お兄ちゃん、分かってるじゃない☆」

 そうなんだね・・・。お兄ちゃんも、紗織も、こういう意味では

同次元の住人なんだって、はっきり理解できたよ。



 それでも、ね・・・



「いい加減に目を覚ましたらどうなのっ!!」

 全身のバネを開放して、一気に2人の延髄めがけてハイキックを

放つ。紗織かお兄ちゃんのどちらかがこれをかわしても、残りの1

人に全てのダメージが入る軌道だ。さすがに、呼吸中枢と血管中枢

の双方に衝撃を入れておけば、当分は静かになるだろう。

「この程度でのスピードではお姉さんは倒せないね☆ 歩は予備動

作が大きすぎるよ」

「そうだぞ、歩。お前の技もそろそろ見飽きて・・・」

 流石は紗織。ボクの思惑をよく理解して避けている。でも、初撃

をかわされるのはボクも予定内。それを自覚していないお兄ちゃん

は・・・



「歩。今は紗織の部屋にでも寝かせておけばいいけれど、もう他に

ベッドは無いわよ」

「歩もだいぶ腕を上げてきたね。まさか、ああ繋いでくるとは、お

姉さんも予測できなかったよ。冬の新刊は、このネタで決まりだね

☆」

「優季お姉ちゃん。この辺って、変わった人が多いの?」

「みんな、いい人ばかりだよ☆」

 いつの間にか、優季さんは瀬菜の横に腰掛けて話を進めていたけ

れど、さっきの発言といい、瀬菜って、実はかなり正直な性格なの

かもしれない。

「そういえば、猫を探してるって言ってたよね。お姉ちゃん、ちょ

っと占ってあげたらどうかな☆」

「私は、そこいらの便利屋とは訳が違うのよ。あれは、猫捜しなん

かに軽々しく使うものじゃないわ」

「違う!火燐(かりん)は、私が生まれる前から一緒にいたの!

既に私の一部といってもいいくらいの友達なの!」

「それなら、私が瀬菜の代わりにその子を捜してあげる。瀬菜、そ

の火燐ちゃんって、どんな子なの?」

「それが分からないと、優季ちゃんも私も、捜しようがないからね

☆」

 優季さんと綿月さんの問いかけに、瀬菜は、はっとしたように、

口を押さえた。猫の特徴を訊いたくらいで、口をつぐんでしまうな

んて、一体どうしたんだろう?

 沙夜さんは瀬菜に一瞥を送ったかと思うと、冷淡に話しかけた。

「『赤の他人には話せない』って顔してるわね。いいのよ、私は優

しいから。閉ざしている心を無理にこじ開ける気は全くないわ。瀬

菜が1人で生きていくつもりなら、それを変える気も無い。何処に

でも好きな所に行くがいいわ」

「そんな・・・。お姉ちゃん、そんなのって酷いよ!」

「紗織はまるで分かってないわね。瀬菜にとって、情けは単なる重

荷でしかないのよ。それなら、今のうちに叩き出した方が、お互い

の為ね」



 瀬菜は沙夜さんにあれだけ言われたのに、ただ黙ってうつむいて

いた。シーツの端を握り、時折寂しい目でボクたちを見ては、すま

なそうに視線を移していた。

 ただ時間だけが流れていったけれど、やがて、ボクはもうすぐ「

期限」が過ぎようとしていることに気付いた。

 こういう時って、何故か直前に分かってしまうんだ。口で言うの

は難しいんだけれど、あと一瞬後には空気が揺らぐんだってね。だ

から、ボクは何か言わなければならなかった。特に瀬菜に感情を抱

いているわけじゃないけれど、これだと、さすがに後味が悪すぎる

もの。

「待ってください、沙夜さん。少しだけ、瀬菜を1人にしてあげて

ください。お願いします!」

 とにかくこの場を取り繕うと、ボクはいい加減なことを言ったん

だけれど、優季さんも同調してくれた事もあったおかげでボクの提

案が採用されることになった。



「そうは言ってみたものの、これからどうしようかなぁ・・・」

 ボクだって、何か考えがあった訳じゃない。とりあえず降りてき

たけれど、仕事の続きでもするしかないのかな。そう思っていると、

綿月さんはお湯を沸かして何かの用意を始めていた。優季さんは興

味津々にその手元を覗きこんでいる。

「その抽出器を使うなんて珍しいね。何を作るつもりなの?」

「そろそろ、優佳さんが目を覚ます頃ですから。お茶を差し上げて

きますね」

 まただ――ボクは、綿月さんが丁寧語を使うとき、嫌な気分にな

ってしまう。何故なら、こういうときは多くの場合お兄ちゃんが関

わってきているから。

 ついでに言うなら、綿月さんは香茶のレシピも数多く持っている。

その中には薬効のあるものも多いけれど、そういったものに限って

とても美味しいとは言えないものが多いんだ。薬としての効果を優

先して作っている以上、仕方が無いんだけどね。

「そんな『お茶』を飲まされるなんて、お兄ちゃんも不幸ですね」

「でも、歩ちゃんが与えたダメージには、これが一番効くのよ。

あの手の攻撃は、なるべく控えた方がいいわ」

 うっ・・・、手痛い反撃・・・・・・

 綿月さんは階段へ姿を消し、紗織も間もなく後を追っていった。

「瀬菜ちゃんの様子をうかがってくるね☆」なんて行ってたけれど、

あの口ぶりからは覗いてくるつもりにしか見えなかった。

 そんな中で、ボクは優季さんに声を掛けた。

「優季さん、外の空気でも吸いませんか?」

「うん。歩ちゃんに付き合うね☆」



 外にはもう秋の気配が立ち込めようとしていた。日毎に澄んでゆ

く空、その歩みを早めてやまない太陽。くすんだ色の落ち葉は身を

切るような風に吹かれ、落ちた後にはもの悲しい音を立ててアスフ

ァルトにその身を削っていた。

 ボクは、ずっと優季さんに訊こうと思っていた。優季さんと二人

っきりになる事があったら、絶対にそうしようって、ずっと前から

心に決めていた。そして、遂にその時が来たんだ。ボクは、思いき

って優季さんに問いかけた。

「優季さんは、毎日が楽しいですか?」

「うん、私はとても楽しいよ☆ こうして、みんなと一緒にいられ

るもの」

「本当に、そう思っているのですか?」

「歩ちゃんは、楽しくないの?」

「優季さんは、あれでいいのですか・・・」

「えっ?」

「綿月さんが・・・、お兄ちゃんと二人っきりになっているのに、

優季さんは何とも思わないのですか!?」



『私、優佳さんの事が気になっているんです・・・』

 綿月さんがそう言ったのはいつの事だっただろう。もう覚えては

いないし、思い出したくもない。綿月さんと距離を置き始めたのも、

多分この頃から。そして、ボクの隣にいた優季さんは、黙って全て

を聞いた後、綿月さんの手を取って笑いかけた。

 ボクは、もう我慢できなくなってきていた。こんな関係がずっと

続いている事が。何事にもいい加減なお兄ちゃんも、優季さんの気

持ちを知っていながらお兄ちゃんを狙っている綿月さんも、ただ笑

ってすべてを見ているだけの優季さんも、結局何も変えようとはし

ていない。ただ流されるままにして、付き合っているようなふりを

しているだけじゃないの!!

『ボクの気持ちなんて何処かに放り出しておいて、自分たちだけ、

好きな事をしておいて、それでも、まだ足りないっていうの!?』

 ボクは、必死で抑え込んでいた。これだけは、決して言ってはな

らない言葉だから。ボクの周りの全てを壊してしまいかねない言葉

だから。それが分かっているはずなのに、心の中に閉じ込めている

感情が沸き立っていくのが自分でも分かった。



 でも、優季さんはボクの勢いに飲まれる事もなく、透き通った声

でこう答えた。

「流香は私の親友だよ。今でも、これからも、優佳が側にいても、

いなくても、ずっとそうなんだよ」

「そんなの、ボクには理解できません!綿月さんは、優季さんの気

持ちを知っててあんな事をしてるんですよ!それなのに――」

「歩ちゃん、恋に理屈は必要なのかな?」

 恋――それは、ボクが忘れかけている単語の代表のようなものだ

った。この手に触れるには遠すぎるものだし、触れないものだから、

霞んでよく見えない。だから、ボクはよく分からなかった。そんな

ものだったから、ボクは昔読んだ本の中から適当に言葉を選んで答

えた。

「・・・理屈なんて言われたって、どうしようもないですよ」

「流香もそうなんだよ。私だってそう。流香を今でも親友だと思っ

ていることに、理屈なんて無いの」

「そんな・・・。それなら、綿月さんは優季さんの心につけこんで

一人だけ得をしているじゃないですか! 優季さんにも、お兄ちゃ

んを奪ってしまう権利があるはずです!」

 ボクを黙って見ていた優季さんは、やがて、風に向き合うように

振り返り、そして静かに語り出した。その様は、ボクだけではなく

って、何処か遠くのものに想いを馳せて語り掛けている――そんな

気がした。

「優佳にとって、私は『決して失いたくない大切なもの』でしかな

いのよ。私も優佳のことをそう思っているけれど、この2つの想い

は多分何処かで異なっている。だから、重なるとは限らないの」

 優季さんの言葉は、ボクには理解できなかった。言葉の意味は分

かっても、優季さんの胸の内が、ボクには全然分からなかったんだ。

だけど、優季さんはボクよりもずっと苦しく切ない心を抱いていて、

それでもなお、お兄ちゃんの事を想い続けていることが、ボクに伝

わってきた。ボクの言葉は、優季さんの心の中でも最も痛い所を突

いしまっていたんだ。

「優季さん・・・」

 そんなボクに気を悪くしたはずなのに、優季さんは、いつもと変

わらぬ様子に戻って、こう続けた。

「大丈夫。私だって、まだ諦めてはいないから☆」

 もう、ボクには何も言えなかった。お兄ちゃんはともかく、綿月

さんも、優季さんのような大切な想いを抱いているのかもしれない。

もし、そうなのだとしたら・・・

「歩ちゃんも、いつか分かるよ。何か、大切なものが見つかった時

にね」

 ボクはその瞬間少しだけ違和感を感じたような気がしたけれど、

それは気のせいだったのかもしれない。そして、優季さんが音も無

く歩き始める。

「そろそろ戻ろうよ。風も寒くなってきたしね」

「別に、風はボクたちを嫌ってはいませんよ。この風をどう思うか

は、ボクたち次第です」

 優季さんが、急に立ち止まる。しばらくボクの顔を見たかと思う

と、優季さんは呟くように問い掛けた。

「あなた、歩ちゃん・・・だよね・・・」

「ボク、何を言い返しているんでしょうね☆ そんなに向きになる

ような事でもないのに」

 適当に笑ってごまかそうとするボクとは対照的に、いつになく真

剣な優季さんの瞳が、ボクを真っ直ぐに見通した。ボクは、そんな

優季さんが少し怖かった。思ったんだ。この人は優季さんの姿をし

ているけれど、実は違う何かなのかもしれないって。

「それが、歩ちゃんのいいところだよ。そういった思い、忘れない

ようにしてね」

 優季さんの言葉が分かるようになる頃、ボクは一体何を知ってい

るのだろう――ボクには、想像さえもできなかった。



 リーフレットに戻ってみると、沙夜さんと綿月さんがお店の仕事

を慣れた手つきで片付けていた。

「そろそろ上に行ってあげたら。本当は待っているんだから」

 沙夜さんも、何だかんだ言って瀬菜のことを心配してくれている

んですね☆

「優佳さんも、持ちなおしましたよ」

 楽しそうに綿月さんが告げてくるけれど、ボクはまだ複雑な心境

だった。そして優季さんが話に入ってくる。

「それで、何を話したの?」

「歩ちゃんの話。中身は秘密です☆」

「もういいです。ボク、行ってきますから」



 沙夜さんの部屋に入ると、瀬菜は疲れきった顔でベッドに腰かけ

たままにボクを見つめた。

「ここ、いいよね」

 瀬菜の返事を聞く前に、ボクも瀬菜の横に腰掛けた。

「瀬菜は、ボクのこと嫌い?」

「私、お姉ちゃんが好き・・・」

「それじゃあ、ボクと火燐ちゃんとは、どっちが好き?」

「・・・・・・」

「ごめんね、いじわるなこと聞いちゃって」

「どっちかなんて、選べない・・・」

「そうだね。友達はみんな大切だもの。それでいいんだよ」

 瀬菜は不思議そうな表情でボクを見たかと思うと、またその目を

そらせた。

「でも、私がお姉ちゃんの事を好きでも、私はお姉ちゃんの友達じ

ゃない・・・」

「だったら、ボクも瀬菜の仲間に入れてよ☆ そして、一緒に大切

な友達を探そうよ」

「私、お姉ちゃんの友達なの・・・?」

 一瞬のためらいを帯びた声で、瀬菜が訊き返す。

「ボクだけじゃない。優季さんも、紗織も、綿月さんも、沙夜さん

だって、みんな瀬菜の事を気にしてくれているんだ。みんな、瀬菜

の友達だよ☆」

「・・・お姉ちゃん、ごめんね! 私、怖かったの。火燐のことを

話したら、みんな、私のこと嫌いになってしまうかもしれないって

思ってばかりいて、実は一番大事なこと忘れていた! 私、心のな

かの何処かで、火燐とお姉ちゃん達のどちらかを選ぼうとしていた。

本当に大切なものをなくしてしまう所だった! そして・・・」

 泣き崩れる瀬菜の身体を優しく抱きとめる。瀬菜は、見た目では

しっかりしているかもしれない。でも、本当は寂しがりやで、ちょ

っと意地っ張りなだけの小さな女の子だったんだ。ボクは、そんな

瀬菜が少しだけ好きになった。

 震える背中に語りかける。でも、後にして思えば、その言葉はボ

ク自身へのものだったのかもしれなかった。



「涙が乾いたら、行こうね。そして、本当に大切なものをみんなと

一緒に探そうね・・・」




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