第三章「想いを乗せる風」後編



 ボクは、風の声が好き。こうして心を寄せているだけで、風は驚くほど多く

の想いを伝えてくれる。

 それは、例えば煙の匂い。明け方に掃いた落ち葉の山が、みんなに温もりを

分けている。そして、例えば草葉のざわめき。もうすぐ迎える冬に向かって、

みんな準備に余念が無い。並木の銀杏の匂いだって、一応大事にしてあげる。

これだって、きっとボクへの言葉なのだから。

 ボクは、いつも思うんだ――風も、空も、きっと想いを伝える為に生まれて

きたんだって。





 今日は気持ちがいいくらいに晴れた日で、ちょっと肌寒いけれど走るのには

最高の条件が揃っていた。これなら、学校までの自己ベストだって更新出来る

かもしれないけれど、今日はちょうど休みの日。別のコースを更新するのには

ちょうどいい機会なのかもしれないし、そう考えると身体の動きも一段と軽く

なってくる。もちろん、用事が無かったら・・・の話だけれどね。



 そんな事を考えながら腕時計をチェックすると、ボクはもう一度後ろを振り

返った。

「もぅ!こういう事になったのも、全部、お兄ちゃんが起きなかったからなん

だからね!」

「それは認めるけど、歩にだけは、それを言う資格なんて・・・」

「文句言わないで走るの!もう少しで、20分の遅刻だよ!」

 そう。ボクとお兄ちゃんは、この状況下でリーフレットへ全力疾走していた。

お兄ちゃんは、日頃はろくに動いていないのですぐに息が切れる。もう少しは

ボクみたいに・・・

「くっ・・・、これだと、まるで・・・歩みたい・・・・・じゃないか・・・」

「お兄ちゃん!その言い方、ボクがいつも遅刻してるみたいじゃない!」

「歩・・・、ちょっと・・・」

 そんな言い種に耐えられなくなったボクは、真っ直ぐお兄ちゃんの方に向か

って駆け出した。

「待て・・・、話を・・・」

 問答無用。今日こそは決着を着けるんだからね!

 ボクは、足が止まりかけているお兄ちゃんの前に詰め寄ると、自信を込めて

言い放った。

「・・・さぁ、お兄ちゃん。ボクが、いつどこで何回遅れたのか、全部言って

みてよ。そんなこと、そうそう無いはずだよ」

 お兄ちゃんは、何も言わずに肩で息をついていたかと思うと、ボクを前に、

おそらく精一杯の声で叫んだ。

「文句を言う為だけに戻ってくるんじゃない!それだけ、到着が遅れるぞ!」



 結局、ボクたちがリーフレットに到着するまでには、更に10分の時間を費

やす事になった。



 リーフレットに入ると、綿月さんと瀬菜が、しきりに何か話し合っていた。

「・・・家の近くに小川が流れていたのね。行くときに大通りや踏切を渡った

記憶はある?」

「ない」

「家に帰るとき、どちらに日が沈んでいったか、覚えてる?」

「・・・ちょうど、川の流れていく方」

「そうなの・・・。それなら、丘の方には何があったの?」

「歩お姉ちゃん」

「え・・・?」

「綿月さん、おはようございます。瀬菜、遅れてごめん!」

「こんにちは、歩ちゃん。優佳さんも、お疲れ様でした」

 後ろを振り向くと、お兄ちゃんが今にも倒れそうな体勢で入口のドアに寄り

掛かっている。もぅ、ほんのちょっと走ったくらいでこうなってしまうなんて、

妹として情けないよ。本当に、ボクのお兄ちゃんなのかなぁ。

「良かった・・・。まだ、出発してなかったんですね」

「ええ。その前に、場所を絞り込んで置こうと思ったので、瀬菜からいろいろ

話を聞いていました」

 綿月さんの手元にあったのは街一帯の地図。そのあちこちに境界線と斜線が

引かれ、既に3分の2が塗りつぶされている。

「流香はこの街を隅々まで知っているからね。私たちだけだったら、とても、

こうは行かなかったよ」

「そういう優季ちゃんだって、みんなのお弁当を用意してくれたじゃない。私、

もうお昼が楽しみなの☆」

「ふふ。今日は、とっておきの試薬・・・じゃなくて、材料を使ったんだよ☆」

 確かに、優季さんが作ってくれる料理はどれも文句のつけようが無いくらい

に美味しい。でも、ボクは何故かそれを素直に喜べないんだ。これって、本当

に、ボクがわがままなせいなのかなぁ・・・



 紗織は、手帳なんかを見ながらしきりに何か考え込んでいたけれど、ボクと

お兄ちゃんが来たことに気付くと、にわかにボクの方に向き直った。

「確か、歩は携帯持ってなかったよね」

「うん。あんな物、高いだけでめったに使わないに決まってるよ」

「もぅ、まだ分かってないの?最新の情報をいち早く入手し、それを分析して

新しい需要を先取りする。これは商売の基本なんだよ。それを利用していない

歩は、絶対どこかで損してる。その事を、もっと自覚した方がいいよ」

 普段は細かいことなんて気にしないのに、こういう事になると、紗織は急に

人が変わる。こういう所を見ると、性格こそ違うけれど、やっぱり沙夜さんの

妹だ。

「それ、前にも聞いたよぉ」

「知っているのに、ちゃんと覚えているのに、歩は聞いてくれなかったんだ。

歩は、お姉さんの心なんて全然分かってはくれないんだ・・・」

 もぅ、どうして『お姉さん』が年下の女の子に泣き落としをかけるのかな?

ボク、何がなんだかさっぱり分からないよ。

「泣いたふりなんかしたって無駄だよ。それで携帯が生み出されるっていうの

なら、話は別だけどね」

「・・・そうか、その手があったよ!歩も、たまにはいい事言うじゃない☆」

 えっ!? それって・・・

「お姉ちゃんに頼んでおくね。通話料は必要経費にしておくから、少なくとも

うちでバイトしている間は常に身に付けておくこと」

 沙夜さんの事だから、きっとすぐに了承するだろうな。実際、これから出発

しようという今だって、いつもと同じようにお店の準備を進めているんだもの。

 また、持ち物がひとつ増えちゃうんだ。何かボク、紗織に毎日改造されてる

ような気がしてきたよ・・・

「優季ちゃんとお兄ちゃんも持ってないから、今手元にある分はお姉ちゃんと

るかちゃん、それに紗織お姉さんの持っている3台か。二人一組で行動できる

けれど、分散行動は控えた方がいいかもね」



 そんな事を言っている紗織の懐から、急に、軽快かつ季節外れの旋律が流れ

出してきた。



「は〜い、いつも元気な紗織お姉さんだよっ☆」

 相手が誰かも分からないのに、よくそんな挨拶ができるね。紗織の友達って、

一体どういう性格・・・って、考えてみると、ボクも紗織の友達だったんだね。

「紗織お姉さん、私の挨拶まねしてる・・・」

 優季さんが小声で突っ込むけれど、もちろん、通話は関係なく続いていく。

もっとも、紗織が聞き手に回っていたから、内容は殆ど分からなかった。

「・・・うん、そういう事なら二人ほど増援を送るよ。それじゃあ、死なない

程度にがんばれよ〜っ! それじゃあね〜☆」

 そうして、結構非情な言葉と共に携帯を切ると、紗織は沙夜さんの方に向き

直った。

「お姉ちゃん、く〜ちゃんが援護を望んでいたから、お兄ちゃんと誰かを送っ

てもいいよね」

「多分、頭痛がするから内容は聞かないけれど、とりあえず使えない人材から

送るようにしてね」

「俺は問答無用で確定ですか・・・」

 当然だよ。あんな、あからさまに怪しい人の下に行くのはお兄ちゃんだけで

十分だと思うんだけど・・・

「優佳だけだと不安だよ。私も、一緒に行ってあげる」

「私も、優季ちゃんと行ってあげたいけれど・・・」

「分かってる。瀬菜の記憶を辿っていけるのは、流香だけだからね」

「そういう事なら、お姉さんの携帯を貸してあげる。1時間毎に定時報告する

他にも、何かトラブルに巻き込まれたら、すぐに連絡してね」

「でも、この電話だって携帯から掛かってきたんですよね。お借りしますから

別にいいですよ」

「それは、やめておいた方がいいよ。く〜ちゃんの携帯はね、事前に決められ

た操作を一つでも踏み外すと即自爆しちゃうの。意味不明だけど凄いでしょ☆」

「うわぁ・・・本格的ですね・・・」

 こんな所で喜ぶなんて、優季さんも意外に適任なのかもしれない。

「だから、素直にお姉さんのを使うといいよ」

「そういう事なら、遠慮なく貸してもらいます☆」



 でも、このやりとりを見た時点でボクはちょっと不安だった。そして、こう

いう事に限って、ボクの予感はイヤなくらいによく当たってしまう。実際に、

今日だって1時間も経たない内に電話が掛かってきたんだもの・・・



「お姉ちゃん、どうやら優季ちゃん以外は当分、再起不能みたいだよ〜」

「そう・・・取りあえず、優季はそれなりに使えるから、携帯を頼りに流香と

合流させて。あの二人には救急車と置き紙を用意すれば充分よ」



 こんなやり取りがあったのは、綿月さんが瀬菜と出発してから間もなくの事

だった。

 場所が絞り込めたとはいっても、瀬菜の記憶はかなり断片的なもので、信用

できるほど鮮明な記憶といえば、この街を離れる直前に、いくつかの思い出の

品物を埋めた場所についての記憶だけ。だから、この街を一番よく知っていて、

しかも瀬菜を連れた状態で迅速かつ小回りのきいた移動ができる、綿月さんが、

瀬菜と一足先に出発して捜索場所を特定することになったんだ。

 そして、沙夜さんの都合も考えると、猫探しくらいの理由でお店を休み続け

る訳にはいかないし、ここでアルバイトをしているボクも、紗織と一緒に働か

なければならないんだ。

 こうして、ボクたちが仕事に取り掛かろうとした所に、さっそく電話が掛か

ってきたという訳。



「は〜い☆ 優季ちゃん・・・、あれ、どうしたのかな? 優季ちゃん、聞こ

える〜?」

「紗織!遊び半分でやっているなら、ボクに代わって・・・って、何なの!?」

 突然飛び込んできた膨大な猫の鳴き声を前に、思わず携帯を放して耳を塞ぐ。

「分かりやすく言うと、猫を集める機械を作動させたら、凄い数の猫が現れて

きて、二人がその中に埋もれてしまったんだって。とりあえず、その中に瀬菜

の探している猫はいないみたいだよ」

「優季さん!!聞こえますか!?返事をして下さい!!」

「・・・・・・ぁ・・」

「優季さんっ!!!」

「・・・歩ちゃん・・なの?」

「優季さんだけでも、無事で良かったです・・・」

「全然、大丈夫じゃないよぅ・・・このままだと・・・優佳が・・・」

「大丈夫です。ボクのお兄ちゃんは、これくらいで死んだりはしません・・・

たぶん・・・」

「でも――」

「スイッチを切るか、コンセントを抜けないんですか?」

「とても近寄れない状態なの。この電話だって、20mも離れた所からやって

いるんだよ」

「優季さん、朝に作ったお弁当で猫を誘き寄せるんです!その間に・・・」

「・・・・・・うん。私、やってみる」

「それから、沙夜さんの指示です。二人を救出したら、あとは救急車に任せて、

携帯を頼りに綿月さんと合流して下さい」

 せっかく連れてきたのに、お兄ちゃん、何の役にも立たなかったなぁ・・・



 心の中でため息をつきながら電話を切ると、再び自分の仕事にとりかかる。

ポリ袋一杯に入っている何かの木の葉をカッターでみじん切りにして、ボクの

腰くらいまである大瓶が一杯になるまで、ひたすら詰める。これを搾って蒸留

すると、とっても爽やかな匂いの香油が出来るんだ。

 いまボクがいるのは、1階の奥にある調合室。蒸留塔や抽出器、それに薬品

棚が置かれている辺りは実験室みたいな感じがするけれど、一方で鍋や乾燥機

や電磁調理器もあるし、もちろん、換気扇もちゃんとついている。

 ここはキッチンを改造した部屋で、食事とかも実際にここで作っているんだ

けれど、それだけに油断は禁物。普通の家と違って、うっかりしていると薬品

入りの食事や砂糖入りの石鹸を作ってしまうことになりかねないんだ。「安全

な料理」を作るために、棚も冷蔵庫も別々になっているけど、この部屋の整理

整頓と後片付けは特に徹底されていて、これについてはボクも相当厳しく教え

込まれた。



 沙夜さんは、紗織に店番を任せて、廊下の本棚にあるカタログを読み比べて

いる。沙夜さんは、カタログの新版が届く度に仕入れの値段をチェックして、

商品の価格設定を検討し直すんだけれど、この辺りの判断が、意外に難しいら

しいんだ。お花とか野菜もそうだけれど、天然物やそれに由来する材料は値段

が大きく変動することがある。保存がきくようなものの場合は、在庫を多めに

取って緩やかに調整することも出来るけれど、他のお店の動きとか、売れ行き

も考慮しないとならないから、そう簡単には変えられないんだって。ボクも、

ときどきお客としての意見を求められることがあるけれど、この辺りはとても

真似できない。



 そして、小刻みなアラームが正午を告げたのをきっかけにして、沙夜さんは

ボクの方に振り返った。



「仕事の方は、もう終わった?」

「後片付けも入れると、あと20分くらいです」

「それが終わったら、紗織と昼食を取って。店番なら、私がやっておくから」

「沙夜さん・・・」

「どうかしたの?」

「瀬菜の事なんですけれど・・・」

 優季さんや綿月さんを信用していない訳じゃないけど、自分が殆ど何もして

いない状態が、ボクは不満だった。

「大丈夫、流香の知識は信用できるものだし、優季も付いているはずだから、

まだ私達が動く必要は無いわ」

「そうなんですけれど・・・」

「歩は無理しないで、自分に出来る事をしていればいいの。紗織はそのことを

既に理解しているわ」

 理解しているかどうかは分からないけれど、紗織が自分の持ち場をしっかり

こなしているのは事実だった。

「そうそう、こういう時に焦りは禁物。熱いお茶でも飲みながら、優季ちゃん

のお弁当をじっくり味わおうね☆」

「どうして、そんなに落ち着いていられるの・・・」



 今日も、優季さんのお弁当には手抜きが全く感じられない。見た目の彩りが

綺麗で冷めても美味しいのは勿論、食べやすさまでもしっかり計算されている。

錦糸卵の煮凍りをお箸の先で切り分けていると、自分の料理がいかに及ばない

かを思い知らされる。

 紗織は、卵焼きとウインナ―を最後まで残して食べている。この2つは優季

さんが定番にしているおかずなんだけど、これが毎日、(たまに種類が変わる

とはいえ)いつだって入っているのだから、優季さんのこだわりも相当なもの

だと思う。

「そんなに暇だと思っているのなら、歩も、お姉さんと用事を済ませてみる?

もちろん、お昼休みは無くなっちゃうけどね」

「そんなに、大切な用事なの?」

「綾花ちゃんとの、大切な約束だもの」

 そういえば、一度だけ、綾花さんが不思議な力を持っているって聞いた事が

ある。相談するだけでも、もしかしたら、思いもよらないような知恵を出して

くれるかもしれない。紗織も、実はいろいろ考えて行動していたんだね!

「ボクも行くよ。すぐに洗いものを済ませようね!」

 こうして、ボクは紗織と一緒に喫茶店フローネルに向かうことになったんだ。



 風の冷たい外とは違い、日当りの良い店内は今日も暖かな空気に満ち溢れて

いた。開店前の静かな店内では、季節の早い草花達が、気忙しくも新しい春の

訪れを告げようとしている。そして、そんな穏やかな調和の世界は――



「綾花ちゃ〜ん、紗織お姉さんの登場だよ〜☆」



 紗織の挨拶を前にした瞬間、無残にも砕け散った。

「それ、挨拶の言葉とは思えないよ・・・」

「という訳で、今日は特別ゲストの歩も一緒だよっ!」

「どういう訳なのか、全然分からないよっ!」

「それは、歩がまだまだ未熟だからだよ」

「こんなのが分かる頃には、ボクはボクじゃなくなってると思うよ」

「今日も元気ね。見ているだけで元気になってきそう」

 こんなやり取りを前にして、綾花さんは風にそよぐ綿毛のような微笑を返し

てくれた。綾花さんは、どこか儚げなようでいて、それでも、今日という日を

精一杯に輝いているような・・・そんな、不思議な魅力を持っている人だった。

「綾花ちゃん、まだ、あの絵は飾ってないんだね」

「部屋で大切に飾ってあるの。お客さんに見せるのは恥ずかしいから・・・」

「そうかな〜? 久々の自信作なんだけれど・・・」

「まぁ、あんまり急がなくてもいいよ。あれは綾花ちゃんの為に描いた絵なん

だから、綾花ちゃんの気持ちを大切にしなくっちゃね☆」

「ありがとう。気持ちはとっても嬉しかったから、今は心の中で飾っておくわ」



「あの・・・綾花さん、確か、大切な約束があったんじゃないですか?」

「そうね。お話に夢中になり過ぎて、歩ちゃんを待たせちゃった」

「えっと・・・別に、ボクのことなんて気にしなくてもいいんです。ただ――」

「ボクは、綾花さんの『ふにふに焼き』が楽しみだったから、つい・・・!!」

 えっ? 紗織、それって一体何の・・・

「今日の出来栄えには自信があるの。紗織さんと歩ちゃんが満足してくれたら、

後はメニューに書き入れるだけ☆」

 綾花さんはどこか軽い足取りで厨房に入ったかと思うと、チーズケーキのセ

ットを二人分、手際よく揃えていった。

「お待たせしました。ご注文のふにふに焼きセット、Ver.3.28です」

「これって・・・、どう見ても、普通のチーズケーキにしか・・・」

「そう思うのなら、一口食べてみて☆」

 言われるままに、フォークで先の方を切り分けてみ・・・る?

 フォークは簡単に沈み込むのに、どういう訳か最後の一押しが通用しない。

しかも、押さえるのをやめると、あっという間に元の形に戻ってしまう。

「普通のケーキに、ナイフなんて付けていないよね☆」

 よく見ると、紅茶の横に小さなナイフが置かれていた。そして、紗織に言わ

れるがままに、ナイフを手に取って一口大に切り分けてみる。

「ここまでは、ほんの余興だよ。さぁ、フォークで突き刺して食べてみよう☆」

 ケーキを食べるというシチュエーションを逸脱した声援を受けてフォークを

突き刺してみると、どこからともなく『ぷしゅつ』っていう音が聞こえてきそ

うな、まさにそんな感じの手応えがした。

 既に、ボクの本能は、この物体はケーキじゃなくて、別の生き物か何かなの

だと宣言している。でも、期待と不安が入り混じった綾花さんの顔を見ている

と、ここで逃げる事なんて、とてもじゃないけど出来なかった。心を決めて、

口の中に放り込むと、いきなりに『くにっ』という食感。

「くに・・・!?」

「歩ってば、テーブルマナーがなってないよ。コメントなら、ちゃんと食べて

からにしようね」

 くにっ、ふにっ、うにっ・・・・・噛むごとに、触感が微妙に変化していく

よぅ・・・

 心の動揺に耐え切れなかったボクは、紅茶ですぐに『それ』を流し込んだ。

「お姉さんの発想と綾花ちゃんの努力の結晶。七色の粘弾性を持つ、ふにふに

焼き初体験の感想は?」

「ずいぶん、個性的なケーキですね・・・」

 もちろん、味なんて全然分かっていない。これが、精一杯のコメントだった。

「綾花ちゃん、この反応ならたぶん大丈夫だよ。味もずいぶん良くなっている

から、取りあえず、新メニューには加えられるよ」

「よかった・・・、ここで歩ちゃんが吐き出したりなんかしたら、もう諦めて

しまおうと思っていたの」

「でも、これはほんの始まり。工程を簡略化できれば大量生産も夢じゃないし、

もっと安くて手軽な材料を使えばコストも下がっていくよ。これからの研究が

大事なんだからね。取りあえず、今の配合でパテントを押さえておくけれど、

もっともっと改良していこうね☆」



 こうして、ボクは殆ど思考が定まらないまま、綾花さんにお礼を言って店を

後にした。外の風に当たりながら帰途についていたボクは、ここに来て、よう

やく自分が実験台にされた事に気づいた。

「今更、文句なんて言う気は無いけど、紗織の大切な用って、こんな事だった

んだね」

「歩はどんな事だと思ってたの?」

「綾花さんと瀬菜の件で何か相談したりとか・・・」

 それなのに、ボクは話を切り出す間もなく、ふにふに焼きに思考を飛ばされ

てしまったんだ。こんな事では、とても紗織を笑えないよ。

「な〜んだ。綾花ちゃんとの相談なら、昨日の内に電話で済ませちゃったよ。

『あまり力にはなれないけれど、お客さんに話を訊いてみる』ってさ」

 訂正。ボクの活躍度は、もはや紗織以下だった。

 やっぱり、ボクは大人しくお店の手伝いでもしているしかないんだね・・・

沙夜さんがお店だけに専念しなくてもいいように、ボクはボクの持ち場をこな

していればいい。それに、少ないけれど、ボクの貯金を使えば、瀬菜の借金も

少しは軽くなるかも知れない。



 そんなことを考えながら十字路を横切ろううとするボクの前を、一陣の風が

吹き抜ける。殆ど目に留まらないくらいの速度で飛び出してきたその人影は、

信じられないくらいの制動をかけて、ボクの真横に止まったんだ。

「はぁ・・・はぁ・・・、やっと、辿り着いた・・・」

「綿月さんは、確か優季さんと合流して瀬菜と・・・」

「後ろに乗って! 今、すぐに歩ちゃんの力が必要なの!」

 ボクの・・・力? それって・・・

「お願い。とにかく、時間が無いの!」

 でも、ボクが勝手にそんな事をしてしまったら、後に残った紗織が・・・

「こらこら、歩がお姉さんの心配するなんて12年は早いぞ☆ 歩がやってる

ような仕事くらい、お姉さんなら平行作業でかる〜くクリアできるんだから。

こっちの方は、お姉ちゃんが文句の一つも言えない位に始末をつけておくから、

後は歩に任せたよ」

「紗織・・・、ありがとう!」

 この時、既にボクの身体は地面を蹴って自転車の後部へと飛び移っていた。



 綿月さんが本気で走る姿を見るのは、実はこれが初めてだった。綿月さんは

ボクの全力疾走にいつも並んで走っているけれど、それも軽い運動程度のもの

でしかなかったんだ。

「――それで、瀬菜の育った場所は見つかってからは、優季ちゃんが頑張って

くれたの。優季ちゃんは感性が鋭いから、瀬菜の思い出の品を埋めた場所も、

次々と見つけ出すことができたの」

「そして、今はどんな状況なんですか?」

「これをきっかけに瀬菜の記憶もかなり明確になってきて、今、最後の場所を

探しているの。おそらく、猫さんもその場所にいるはずよ」

「だったら、いまさらボクが探さなくても、すぐに見つかりそうな気がします

けれど・・・大体、そんなに急いで何処へ向かってるんですか?ちょっとした

距離だったら、綿月さんに乗せてもらわなくても、自分で走ります」

「それはね・・・」

 綿月さんが、ボクの方に少しだけ振り返ると、緩く、大きく編み上げた髪が

ボクの目の前まで流れてきた。そこから溢れ出してくるのは、色とりどりの花

の香り。そして、その中に入っていたのは――

「どうしたの? 歩ちゃん」

「綿月さん。この香りって、まさか・・・」

 ボクにとっては忘れられない香り。綿月さんは知らないけれど、ボクの心が

思わず痛んでしまう匂い。

「そうなの。この間、歩ちゃんがくれたお花の香りだよ」

 1月くらい前、綿月さんはお花の世話をしていた時、ボクが見落としていた

お花の病気を見つけ出してくれた。でも、ボクはお礼を言うべきだったのに、

代わりに全然売り物にならないような病気の花を綿月さんに押し付けてしまっ

たんだ。

 そんな事をされたら、誰だって傷つくに決まっている。ボクだって、きっと

心の何処かでは分かっていて、それなのにあんな事をしてしまったんだ。でも、

綿月さんは、お花を引き取った後からも、病気を治して大切に育ててくれてい

たんだ。花を愛しているからというだけではなく、あんなボクの気持ちさえも、

無駄にしないで、大切に抱いて育ててくれているんだ・・・

「流香さん・・・」

「お花、これからも譲ってくれるかな?」

「・・・はい☆」

 初めて顔を埋めた流香さんの背中は、お兄ちゃんと同じくらいに温かかった。

冷たい秋風の中を駆け抜けているはずなのに、優しい温もりに包まれているよ

うな気がして、とても気持ち良かった。



 着いたのは、街から遠く離れた海岸だった。岸壁では、優季さんが力も無く

横たわった瀬菜を抱え込んでいる。

「これって・・・」

「此処は、瀬菜が最後の思い出を埋めた砂浜のあった所なの。今は護岸工事が

進んで、引き潮の時にしか下りられないけれど・・・ね・・・」

 流香さんの言葉の後に、優季さんがさらに次の言葉を継ぐ。

「・・・でも、此処にいるのは間違いないよ。確かに、火の力を感じるもの。

今にも消えてしまいそうな位に、弱ってきているけれどね」

 力を、感じる・・・?? そういえば、流香さんはボクの力が必要だって

言ってたけれど・・・

「そんな事より、瀬菜は・・・」

「やっと落ち着かせた所なの。大切な場所が無くなっていたから酷く動揺して

いたけれど、今は泣き疲れて眠ってるわ。昨日の疲れもまだ残っていたみたい

だから・・・」

 状況はよく飲み込めていないけれど、とにかく、ボクは今自分に出来る事を

やらないといけないんだ。その為に、流香さんはボクを連れてきたのだから。

「流香さん、ボクは、何をしたらいいんです?どうしたら、瀬菜の・・・」

「詩を歌って」

「え・・・?」

「曲は何でもいいし、歌詞も必要ない。ただ、私達だけじゃなく、歩ちゃんの

周りにある全てのものに、『火の力を持った黒猫の居場所を教えて』と、強く

心に想ってさえいれば・・・」

「こんな時に、何を変な冗談なんて言ってるんですか!?ボクだって、怒る時

には本当に・・・」

「――どうして、歩ちゃんが育てているお花は、いつも元気だと思う?」



「それは、もちろん流香さんの手入れが行き届いて・・・」

「違うの。あの子たちが、歩ちゃんから元気な気持ちを分けて貰っているから。

そして、『自分も、歩ちゃんのような元気な子になりたい』って、そう思って

くれるからこそ、あの子たちは、あれだけ綺麗に咲いてくれるんだよ」

「花が、ボクの気持ちに・・・?」

 ボクの言葉に、流香さんがそっと頷く。

「お花は、みんな生きているの。私達と同じように、心だってちゃんと持って

いる。せっかく自分の気持ちを伝える事が出来るのだから、歩ちゃんもお花の

気持ちを分かってあげないとね」

 そういえば、沙夜さんも言っていた。ボクは、花に元気を与えているって。

ボクが来てから、知らないうちに、花が明るくなっているって・・・

「歩ちゃんは、歌を通してあらゆるものに気持ちや想いを伝える事ができるの。

それが、歩ちゃんの持っている、大切な想いの力」

 ボクの・・・・、大切な・・・・・

「別に、特別なものではないんだよ。みんなが心に持っているけれど、いつの

間にか忘れてしまっていた・・・そんな、ありふれたものなんだよ」

 優季さんは微笑んでくれたけれど、ボクが気になっていたのは、流香さんの

言葉が意味している、もうひとつの事実。でも、今は考え事なんかをしている

場合じゃない。

 高鳴っていく胸の鼓動を、そっと落ち着ける。瀬菜が胸に抱いていたはずの

大切な想いを、ボクの心の上に慎重に重ね合わせていく。そして、心に浮かび

上がってくる言葉を、ボクは想いのままに解き放っていった。



今も 求め続けている 心を 風に乗せて詩う 届けられなかった 想いを託しながら 期待 そして不安 胸に抱いて 目を閉じ 心から見つめている
 波の音も、潮風の匂いも、時の経つことさえも忘れて、ボクは目を閉じた まま歌うことだけに心を巡らしていく。ボクの気持ちがゆっくりと、まるで 染み渡るように世界に広がっていく。  夕空を舞う鳥達の心、波間を滑り行く魚達の心、潮風に揺れる草花の心、 それらの全てを抱いた潮風が求める答えを指し示す。目を閉じて詩を歌って いるだけなのに、この場所の全ての想いがボクの想いに応えようとしてくれ ている事が、今のボクにははっきりと感じる事が出来た。  守ろうとしたのは一枚の手紙。この街を去る夏の日に、瀬菜が砂浜に埋め た瓶。小さくひび割れた堤防の隙間に、それは挟まっていた。瓶が割れても 朽ちなかったのは、きっと、この子が命をかけて守ろうとしてくれたから。  自分の事を生まれる前から見守ってきた一匹の黒猫を、瀬菜はそっと抱え 上げた。言葉ではなく、心で語りかける。瞳ではなく身で労う――それは、 瀬菜の育んだ絆であり、手に触れることさえ叶わない猫に応える、おそらく 唯一の接し方だった。 「それじゃ、私は瀬菜を送っていくから、流香と歩ちゃんはもう少し休んで から戻ってね」  全てが無事に解決して、優季さんが瀬菜を送って帰る頃には、既に一日が 終わろうとしていた。沙夜さんはこうなる事が最初から分かっていたように 瀬菜の家に連絡をしていたらしく、優季さんと瀬菜は急いで電車で戻らない といけなくなったんだ。  それなのに、瀬菜は優季さんの後をなかなか歩き出そうとしない。ほんと、 世話が焼けるよね・・・ 「瀬菜、気持ちは分かるけれど、早く行かないとお家の人が心配しちゃうよ」 「お姉ちゃん・・・」  そんな目で見ないでよ――ボクだって、気持ちは瀬菜と同じなんだから。 でも、こんな時にこそ、ボクは出来るだけ明るい声で笑いかけてあげる。  瀬菜にとって、ボクは「お姉ちゃん」の1人なのだから。気紛れでいつも その辺りを飛び回っている妹にとって、いつかは帰ってくる場所なのだから。 だから、ボクは別れの寂しさに目を向けるより、弾んだ声で今の幸せを喜ぶ 方を選んだ。 「でも、本当に良かったよ。今日中に見つける事ができなかったら、瀬菜は 帰るしかなかった事になるからね☆」 「うん・・・」  瀬菜はわずかに俯きながら、ゆっくりとボク達の様子を伺うと、意を決し たように、言葉を口にした。 「お姉ちゃん・・・。私、これからも、お姉ちゃんの友達で・・・」  そんな、当然の事を真剣に問い掛ける瀬菜を、誰も笑ったりはしなかった。 瀬菜にとって、これは本当に大切な事なんだ。初めて出来た友達というもの の気持ちを――繋がりの強さを、別れる前にもう一度確かめておきたかった んだ。 「もちろん、瀬菜はボクの友達だよ。この街で出会った、全ての人が瀬菜の 大切な友達だよ」 「・・・ありがとう。私、きっとこの街に戻ってくる!」  一昨日に瀬菜が来たと思ったら、昨日にはもう友達になれて、それから、 いろいろな事が立て続けにあって、いつの間にか、新しい友達に出会えた。  その日の内に友達は行ってしまったけれど、ボクは、最高の笑顔でそれを 見送ったんだ。その先にある、再会の時の為に。いつか、また出会えた時に、 喜びの笑顔を忘れない為に。  優季さんと瀬菜が家路に就いてから、ボクと流香さんはゆっくりと帰り道 を歩いていた。夕暮れ前の道路沿いを、二人の影が静かに寄り添って歩いて いる。それは、ボクと流香さんとの新しい関係の始まりをはっきりと示して いるように思えた(もっとも、流香さんはいつも通りの態度でいる訳だから、 変わったのはボクだけなんだけどね) 「歩ちゃんも、疲れているみたいね」 「大丈夫ですよ。元気だけがボクの取り柄ですから」 「これ、疲れに効く栄養剤なの。あまり残っていないけれど、よかったら、 歩ちゃんにあげる」 「流香さんだって、あれだけ走ったのだから・・・」 「私は慣れているから大丈夫。優季ちゃんの手作りだから、よく効くよ」 「優季さんの手作りなら、効きすぎが怖いくらいですね」 「その時には、私がお茶を淹れてあげます」 「できたら、美味しいものにして下さいね☆」  こうして、流香さんと話す時が来るようになるなんて、昨日には全く想像 していなかった。でも、ボクはまだ、流香さんに伝えるべき事がひとつだけ 残っている。流香さんも、それには気付いていたみたいで、まもなく真剣な 表情でボクの方に向き直った。 「流香さん・・・」 「優季ちゃんと、優佳さんの事・・・ですね」 「ボクはまだ、流香さんの全てを認めた訳でも、理解した訳でもありません。 流香さんは優季さんの気持ちを知っていたはずなのに、何故、お兄ちゃんの 事を・・・」  しばらくの間、流香さんはボクのことを見詰めていたかと思うと、やがて、 ゆっくりと、言葉を胸の内から掬い上げるように、話し始めた。 「それは、私がずっと抱いていた想いだから。もともと、私達が出会ったの はただの偶然だった。優佳さんとも、時々言葉を交わすだけの関係が続いて いたの」  流香さんの話の中には、優季さんの昔の話や、ボクが聞かされていない話 なんかも入っていた。ボクの知らなかった心の交差が、静かに、詩うように、 ゆっくりと積み重なってゆく日々。 「そんな関係が続いたのは、きっと大切な人が同じだったから。心の動きを 感じながらも、これまでの想いを失いたくなかったから。だから、『このま ま、ずっとこうしていよう』って、ずっと胸の内で繰り返していたの。私の 心を優季ちゃん達に打ち明けた、あの日までは・・・木漏れ陽の輝きに身を 飾って、あの人を待っていた自分に気付くまでは・・・」  それは、今までの大切な想いを失ってまで追いかけたいと言える程の想い。 今のボクには、流香さんの選択が正しいのかどうかさえも分からなくなって きていた。しかも、優季さんと流香さんは、そんなに苦しくて大切な想いを、 自分から選んで、そして抱き続けようとしている。 「・・・ボクには、恋の事なんて分かりません。昨日まで、ボクは流香さん の想いを理解しようなんて、正直言って夢にも思っていませんでした。優季 さんの切ない想いを聞いた時だって、ボクはどうすることもできませんでし た。結局、ボクにとって、恋というのは触れることさえ出来ない存在なんで す。それでも、ボクは今、ここでしか流香さんの想いを訊く事ができそうに なかったから・・・」 「ううん。歩ちゃんは、ただ自分の気持ちに気付いていないだけ。だって、 誰よりも長い間、優佳さんに大切な想いを――」 「ボクの気持ちは、そういうものではありません!!・・・ボクは、ただ、 お兄ちゃんの側にいたくて、ずっと、ボクの事を見ていてほしいって・・・ そう・・・、そう思っている・・・だけです・・・・・・」 「そんな気持ちこそが、恋と呼ばれているものなのよ。歩ちゃんは、決して 恋を知らなかった訳じゃない。ただ、自分の抱いている想いに名前を付けな かっただけ――」 「違います!!ボクはお兄ちゃんの妹です!!だから・・・、ボクの抱いた 気持ちは・・・・・・!!」 「自分の心から目を逸らさないで!昔の私のように、大切な想いを閉じ込め たりしては駄目!どんなに歩ちゃんが忘れようとしたって、想いは止められ るものではないの!!そうしたって、いつかは想いが胸から溢れだしそうに なって、心が痛くてたまらなくなって・・・、それでも、抱いている本当の 気持ちは・・・!!」  それは、いつも優しく微笑んでいる流香さんが、ボクに初めて見せた涙。 流香さんは、それほどの痛みを心に背負いながらも、お兄ちゃんを想い続け ずにはいられなかったんだ。  でも、ボクは何も言わずにその場を走り去ってしまったんだ。流香さんの 叫んだ声さえも風の音にかき消されていくように、ボクは流香さんの言葉が 届かないところを目指して、知らない街を夢中で走り続けた。そして、とう とう走れなくなって後ろを振り返った時、流香さんの姿はそこに無かった。 結局、ボクは流香さんの前から逃げることしか出来なかったんだ。 だって、これ以上は胸の鼓動を隠しきれそうに無かったから。 心臓が破裂しそうで、息さえも出来なくなってしまいそうだったから――

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