第五章  「輝く風の訪れ」


 その日、ボクはいつものように朝陽を受ける部屋の中で目を覚ました。まだ少し眠たい
けれど、窓を開けて朝の空気を胸に吸い込んで、精一杯身体を伸ばしたら、もう大丈夫。
昔は何度も買い替えをしていた目覚まし時計も、今のボクには必要ない。そして、制服に
袖を通してから髪を整えてキッチンに立つと、トーストと目玉焼きを焼くあいだに果物を
切って、簡単な朝ごはんを作る。最初は大変だったけど、優季さんがコツを教えてくれて
からは、自分でもそれほど困ったりはしなくなったと思う。そして、昨日の夜につくって
おいた分と、冷蔵庫にあるあり合わせのおかずで、お弁当を作る。
 こうして、あらかじめ余裕を持って少しの時間を作ったボクは、玄関に立てかけてある
ポートレートに視線を向けた。

 この家で、ボクが家族と一緒にいられた頃の写真。優しくて、でも、ちょっとうっかり
していたお父さん。理屈っぽくて、すこし口うるさく思うこともあったけれど、いつでも
みんなを見守ってくれた、温泉が大好きだったお母さん。そして・・・ボクが、生まれて
初めて、特別な気持ちを抱いた、大切な人。
 じっと見つめて、思い出を振り返った後、隣にかけてある鏡へと目を移す。ボク自身も、
あの時と変わらない、いつもの笑顔を忘れないために。

「ボクは、いつも覚えているよ。ぜったいに、忘れないから・・・」

 こうして声に出してから、玄関に鍵をかけて学校に行くのがボクの日課になった。それ
から門を出ると、前にはいつも優季さんが待っていてくれる。最初の頃には、ボクも優季
さんを待たせたりしないように、もっと早く出ようとした事もあったけど、その次の日に
優季さんがもっと早い時間に出てきちゃってからは、自然に時間が決まっていったんだ。

「おはよう、歩ちゃん。今日の調子はどう? どこか痛い所があったら診てあげるから」
「優季さん、おはようございます。今朝は痛みも殆ど感じなくって、こうして動くのも、
すごく楽なんです」
「よかった・・・季候が良くなってきたから、深い所の傷も少しずつ治っているのね」
「でも、こうして学校まで歩いていける日がまた来るなんて、半年前には思ってもいなか
ったです。みんなが支えてくれなかったら――きっと、ボクは今でも1人ぼっちで病院の
中で泣いていたはずだから・・・」
「歩ちゃんってば、それはもう言わない約束だよ」

 優季さんと同じリズムを刻みながら、季節の移り変わりを感じつつ、学校への道のりを
ゆっくりと歩く。
 去年の冬に大きな事故に遭ってから2週間後、ボクは病室のベッドの中で家族がいなく
なったことを知った。ボクの隣に座っていたお兄ちゃんが、いつまでも目覚めないことも。
でも・・・今度こそ、約束を守ってくれるって、ボクは信じているよ。それは、ここから
ずいぶん遠いところで、ずいぶん遠い昔に交わした約束だけど、ボクとキミを結んでいる、
大切な絆なのだから。


遠い昔、此処ではない、遥か遠い世界にあった風の国に、ひとりのかわいいお姫様がいた。
そのお姫様は、わがままで、気まぐれで、つむじ風みたいと言われていたけれど、ある日、
若者に出あって恋をした。身分を隠したままに逢瀬を重ね、身分を明かした後になっても
自分をありのままに愛し続けてくれる、そんな若者に、お姫様はますます惹かれていった。
だから、自分の国に帰る前の夜になっても、最後まで離れたいとは思わなかった。だけど、
普通の市民である若者と一緒になることは、決して叶えられない夢。若者は遠くに消え、
お姫様はいなくなってしまったけれど、お姫様はひとりの若者を想いつづけたごほうびに、
若者の後世の妹に生まれ変わることができたんだ。ずっと、一緒にいられるように。でも、
お姫様の前に現れた若者は、若者の前世が死ぬ瞬間、自分の前世が犯した大罪を償う為に
兄の魂が乗り移ったものだった。だから、せっかく追いかけてきた妹は、結局は置いてけ
ぼり。兄の魂が帰ってくるのを待っていることしかできない。こうして優季さんと一緒に、
今日も学校に通ってる。


 初夏に路地を通り抜けていく風は優しくて、朝でも暖かい。初めてキミに出会った日も、
こんな風が吹いていた。今のボクにはそれが分かるから、あの時のキミの姿を思い出して
思わず笑みを漏らしてしまう。そして、ふと視線を隣に向けると、優季さんの笑顔。

「優季さん、ボクの顔に、なにか付いてますか?」
「ううん・・・歩ちゃん、いまひさしぶりに心から笑ってくれたから。それが、なんだか
嬉しかったの」
 こんな風に、優季さんはいつもボクの心の機微を感じ取っては、時には挫けそうになる
ボクの支えになってくれる。優季さんの前では、隠し事なんて出来そうにない。
「――さっき、お兄ちゃんのことを思い出したんです。『初めて出会った日にも、こんな
風が吹いていたなぁ』って・・・」
「そう・・・優佳とルティルが、初めて出会った日・・・、か・・・」

 お兄ちゃんの胸の中で泣いたあの日の夜――ボクは、もう1人のボクと共に歩むことを、
2つの記憶と想いを抱いて生きる道を、ボクは選んだ。でも、そのことは、優季さんとの
ふたりだけの秘密という事になっているんだ。でもこうして、慣れない名前で呼ばれたり
していると、なんだかくすぐったい。
「それは、とても劇的な出会いでした。何故だか分からなかったけど、視線が合った瞬間
思ったんです。『この人は、ボクの運命の人に違いない』って、そう感じてしまったら、
後はまるで夢のようでした」
 ゆったりとした優しい風が吹く。まるで、ボクの言葉に応えるように、ボクの心の中に
流れ込んでくる。
「本当に、夢みたいな話だよね。歩ちゃんが生まれる前から優佳に出会ったのも、優佳が
突然に16才の私と出会ったのも・・・」
「でも――こんなにかわいい妹と幼なじみの彼女さんが、こうして健気に、しかも半年も
待ってあげているんですよ。それなのに、まだ帰ってこないなんて・・・優季さんだって、
そう思いません?」
 こうして、思わず頬を膨らませてしまうのはボクの悪い癖だけれど、そのたびに、優季
さんはボクを軽く受け止めてくれる。でも、それは優季さんを困らせているんじゃないよ。
その後に優季さんが決まって続けてくれる言葉を、ボク自身が聞きたいから。その言葉を
聞くことができたから、ボクは、今まで歩き続けられた。

「きっと、長い夢を見ているのよ。私達と同じように。歩ちゃんは、抱いている精一杯の
想いの力で、優佳をこの世界に繋ぎ留めてくれた――あとは、優佳がそのまま私達のいた
世界に止まるのか、それとも私達との約束をまもってくれるのか・・・静かに、見守って
あげようね」

 この世界には、お兄ちゃんに「帰りたい」って思わせるものが、どれくらいあるのかな。
そりゃあ、優佳はあっちの世界では山ほど借金を背負って働かなくちゃいけないし、もう
耐えられないくらいに辛くて、全てを投げ捨てたくなるくらいに苦しいことも経験する。
でも、優佳への想いを抜きにした上で、2つの世界を比べたら、ボクにはどちらが良いか
なんて分からない。

「歩ちゃん・・・なにか、難しいことでも考えてるの?」
 優季さんの声を耳にして、ボクは思考を振り払う。こんなこと、ボクが考えたって仕方
ないのにね。決めるのはボクじゃなくて、お兄ちゃんなんだから。
「きっと、優季さんがいつか思ったことですよ・・・ボク、この世界のために何ができる
のかは分かりませんけど、お兄ちゃんが帰ってきた時のために、今よりも、もっと素敵な
ものにして待っていましょうね」
 それは、優季さんにとっては、なんでもないような会話だったのかもしれない。でも、
ボクにとって、この会話は生まれて初めて自分の目指すべき道を考えるきっかけになった。

 それから間もなく中等科の校門の前に着いたら、ボクと優季さんとの登校はおしまい。
優季さんは此処からもうひとつ奥にある高等科に通っているから、ここでお別れしないと
いけないんだ。
「歩ちゃん。また放課後にね」
「はい、いつもの場所で待っていますから」
 ボクと優季さんは、毎日学校の帰りにお兄ちゃんのお見舞いに行く。別々に行っても、
途中で一緒になるって分かってからは、いつの間にか待ち合わせをするようになったんだ。


 玄関を曲がってすぐのエレベーターで6階まで上って、3つめの角を曲がってすぐそこ
にある個室がお兄ちゃんの病室。センターで許可をもらってから、手を洗って部屋に入る。
「流香も、私達よりしばらく前に訪ねてくれたんだね。今頃は、綾花と一緒に仲良くお茶
でもしているのかな・・・?」
 窓際に置かれた花瓶の中で光を浴びているお花は、流香さんにしか育てられない特別な
お花。知らないうちに流香さんがお兄ちゃんと2人っきりになっていたのに、優季さんは
笑顔でいられるのだから、優季さんと流香さんの間の絆の強さはボクが思うよりもずっと
強いんだろうね。
 お兄ちゃんの枕元に掛けた袋に入っているのは、あの時沙夜さんがくれたお守りと優季
さんのペンダント。あれほど大きな事故に遭っておきながら、お兄ちゃんを辛うじて引き
止められたのは、ボクだけの力じゃなくて、みんなが心から想ってくれたお陰だったんだ。
 車ごとガケの下に飛ばされたとき、ボクは後先も考えずに自分から外に飛び出していた。
外に投げ出されたお兄ちゃんを必死に捕まえるために――でも、そこから先のことなんて、
ボクは何も考えていなくて、どうにもできなかったんだ。そして、ボクは生まれて初めて
心の底から願った。ボクの全てを引き換えにしても、お兄ちゃんだけは助けてあげたいと、
そう願うことしか、あの時のボクにはできなかったから。
『お願い、お兄ちゃんを助けて!! ボクはどうなったって構わないから、もう二度と、
大切な人を傷つけたくないから――だから、ボクがするべき事を教えて!!』
 残されたごく僅かな時間、全てを捧げて祈った時だった。2人が大地に叩きつけられる
直前に、風が吹いたのは。
 今のボクには、それが決して偶然ではなくて、心の中に元々あった想いの力だと分かる。
精霊石はあくまで想いと情愛が結晶として具現化した姿であって、形にならなくても心の
中からその力の一端を引き出すことができたんだ。でも、それだけじゃないんだ。ボクと
お兄ちゃんが沙夜さんからもらったアクセサリは、肌身離さず持ち歩いていたのにあの事
故のときに揃って壊れていた。暗い谷底へ落ちていく中でボクの心が挫けそうになった時、
最後までがんばれたのは、優季さんの言葉があったからだった。流香さんがボクの本当の
想いを教えてくれたから、ボクは、お兄ちゃんのために全てを捧げられた。

 あ・・・いま、少し笑ったね。楽しいことでも、あったのかな? でも、お兄ちゃんの
ことだから、ほかの女の子にまた浮気しているのかも――むう〜・・・突っついちゃえ。

(つんつんつん、ふにふにふに・・・)

 ボクの攻撃に反応して、少し身をよじろうとするお兄ちゃん。でも、寝ているから逃げ
ようにも逃げられない。ふふ、ボクをいつまでもほったらかしにしているバツだよ。

「歩ちゃん、窓を開けようよ。今日は風が良い日だから、きっと優佳も喜ぶよ」

 ・・・優季さんは、お兄ちゃんの気持ちが分かるんだね。夕日色に染まったカーテンを
寄せて、2人で窓を開け放つと、ほどなく優しい風がボクと優季さんの髪を撫でる。風は
こうして、いくつもの季節を送ってくる。でも、風が幾度巡ったって、ボクたちは変わる
ことができないんだよ。お兄ちゃんが、どちらの世界を選ぶのか。夢が終わるその前に、
誰を選んでくれるのかを、ね。
「優佳、歩ちゃんを1人ぼっちにしちゃ駄目だよ。たった1人の、家族なんだから――」
 優季さんが語りかける。お兄ちゃんの手に触れながら。優季さんは、こんなにも自然に
ボクよりも近い場所へ入り込んでしまう。ボクとお兄ちゃんが『約束』で結ばれていても、
優季さんとお兄ちゃんは、約束と全く違う種類の絆で結ばれているのかもしれない。もう、
お兄ちゃんのことになると、どうしても落ち着かないよぉ。
「夢の続きが現実になる・・・か。でも、夢の続きを現実にするか、新しい夢の始まりに
するかを決めるのは、結局はお兄ちゃんなんだね」
 聞こえているのかどうかも分からないのに、つい、言葉にトゲが入ってしまう。起きて
いても寝ていてもボクを困らせるなんて、迷惑な話だよね。

「もぅ、許してあげないから。今日の夕ごはんはお兄ちゃんの好きな牛丼で決まりだよ。
泣いて謝ったって、ボクが全部ひとり占めしちゃうんだから。でも、お兄ちゃんは点滴で
満足だよね。どうせ、何も食べなくたって平気なんだからっ」
「でも、歩ちゃんって牛丼好きだった?」
「そ、それは――カロリーは高いし、栄養も偏っていますけど・・・そこは、頑張ったら
・・・・優季さんも、どうにかなるように考えてくださいねっ」
「歩ちゃんったら、意地張っちゃって。それに、無理して優佳に合わせることはないよ。
それよりも、ひさしぶりに夕食会を開いて、みんなで優佳のことお話しない? その方が、
きっと楽しいよ☆」

 優季さんからの素敵な提案。そうだね、みんなだってお兄ちゃんの事が好きなんだから。
今日は夜遅くまで、みんなで昔あった楽しい思い出を話そう。お気に入りの服に着替えて、
ごちそうと美味しい飲み物を囲んで、あの頃に作った詩を詠おう。みんなとお兄ちゃんの
間にある絆をもっと強くして、挫けたくなる気持ちに負けないくらい元気を取り戻そう。

 そうと決まったら、早速みんなに声をかけなくちゃ。急に決まった話だから、まずは、
都合から聞かないと。
 一度家に戻ってから制服を着替えて優季さんと落ち合うと、最初に向かうのは綾花さん
のお店。入ってみると、いつものように綾花さんと流香さんが、2人だけの店内で穏やか
にお話していた。

「――ね、言ったとおりでしょう」
「うん――私も、もっと頑張ることにするね」
 ボクと優季さんの提案に、少し不思議なやりとりを交わす綾花さんと流香さん。
「今日の流香さん、いつもと少し違う気がします・・・・なんとなく」
「そうね。まるで、私達が来るのを待っていたみたい」
「ふふ、なんでもありませんよ。歩ちゃん、さっそく準備に取りかかりましょう」
「そういう事だったら大歓迎よ。ちょっと、今は厨房が片付いていないけど、お料理さえ
用意してくれたら、それまでに飾り付けをしておくから。あと、何か必要なものが出たら
電話で教えてね」
「そのことなら、ボクの家を使ってください。いつも綾花さんのお店ばかり使わせて頂く
のも、迷惑ですから。それに、どうせ住んでいる人だって、ボクひとりだけ――」
 『1人だけ』・・・自分で言ったその言葉が、ボクの胸を詰まらせる。
「ごめんなさい。私のせいで、辛いことを思い出させちゃって・・・」
 涙が出そうになるのを我慢しながら、精一杯首を振る。ボクが自分で言ったことだもの。
優季さんが謝るようなことじゃない。それに、ボクは決めたんだ。もう泣かない、笑って
いようって。次に泣くのは、お兄ちゃんが目覚めた時だけだって。だから、ボクは笑って
優季さんに答えた。
「いいえ、やっぱりボクの家にしましょう。賑やかに使ってもらった方が、両親だって、
きっと喜びます」

 こうして綾花さんと流香と簡単に予定を決めると、次はもちろん紗織と沙夜さんのお店。
「もちろん、歩と優季ちゃんの行くところなら、どこまでも付いて行っちゃうよ☆ お姉
ちゃんだって、そうだよね」
「――20分遅れてもいいのなら、私も付き合うわ。それと、商品には手を出さないでね。
今、在庫が納品ぎりぎりの数しかないから。それに、歩の生活費だけだと、買出しをする
にも、先立つものが足りないでしょ・・・」
 そう言うと、沙夜さんは引き出しの鍵を開けて売り上げの一部を手渡してくれた。
「そんな――ボク、こんなにも使うつもりなんて・・・」
「預けるだけよ。これが紗織だったら、自分の力でなんとかさせる所だけど、歩にはまだ
少し早いから18才までは甘やかしてあげる」
「えぇ〜、紗織は10才からお小遣い貰ったことないのに・・・」
「そのかわり、手に職が付いて良かったでしょ」
「結果的には、お姉ちゃんのおかげで月収は出来たけどぉ・・・でも、変な温泉地に投資
しようとした時には、止めて欲しかったな。結局しなかったけど」
「甘いわね。そこまで気に入ったのなら、余裕資金で長期的利益を狙うのも良かったのに。
利ザヤ稼ぎの相手くらいに思うのならともかく、本気で興味があるんだったら、応援して
あげるくらいの気持ちで資金を融通してあげるのも社会人の特権よ」
「お姉ちゃん・・・紗織、これでもまだ高校生なんだよ・・・」
 さりげなく、この年頃の女の子の会話とは思えない内容を話している沙夜さんと紗織。
でも、何も分からないし、知らなかったボクが押しかけてきても、快く受け入れてくれた
上に、たくさんの大切な事を教えてくれた。この世界には、いろんな気持ちの形があって、
愛情にも、友情にも、いろいろな表し方がある。後から気付いたこともあったし、今でも
気付いていないのかもしれないけれど、

「ほら、早く行きなさい。歩と優季が笑ってるわよ」
「むぅ〜、分かったよぅ。それじゃあ、みんなお姉さんに付いてくるんだよ〜」
「でも、どうせ行くお店は同じなんだよね?」
「もぅ、歩だって修行中なのに。その証拠に、今夜は歩の知らないことだって、たくさん
たくさん教えちゃったって・・・お姉さんは後悔しないよ」
「う・・・・なんとなく、知らない方がよさそうだから、ごめん」

 みんなのリクエストを一通り聞いてから、紗織の後に続いて商店街巡り。最近は便利な
スーパーがあちこちに建ち始めたけど、ここには素材の声を聴くことのできる人達が沢山
いて、日に合わせておすすめの料理の仕方とか値動きまで教えてくれるし、仲の良い料理
店だと、普通のお店では卸していないようなスパイスも特別に分けてくれる。
「あっ、隠し味の白ワイン、一昨日の煮込みに使い切っちゃったんだ」
「白ワインだったら、綾花のお店にもあるよ。少しだけ、小分けにしてもらおうか」
「この時間なら、もう100円安くならない? そこに売れ残ってる徳用すり身10本も
一緒に買うから」
「ちょっと紗織、すり身を使うメニューは入っていないよぉ」
「大丈夫、これは別のものに使うから」
「歩ちゃん、あっちの雑貨店に寄り道してもいいかな? 寒天と乾燥ブイヨンの残りが、
ちょっと心もとないの」
 気持ちも弾んできて、つい買い物しすぎちゃったけれど、3人でも持ちきれなくなって
きたから、買い物はおしまい。あとは、ボクの家でみんなを迎えて、ダイニングで料理を
つくって、テーブルの飾り付けをしたら、楽しい時間の始まり。

 こんなにも、簡単だった。みんなで笑って、たくさんお話をして、昔あったことを思い
出して――まるで灯が燈ったように、半年ぶりに本当の幸せが戻ってきたような気がした。
 夜が次第に深くなって、それでも誰も帰ろうとしないで、居間の窓を開けて星を見たり
しながら、のんびりと想いを巡らせていた。ボクを1人にしないようにって、そう思って
くれたのかもしれないけれど、その心遣いが嬉しかった。


 どれくらい、時間が経っただろうか。不意に耳慣れた電子音――電話の呼び出しが鳴り
響いた。
「あ、ボクが取りますから・・・」
 気にしないで、と身振りで示した沙夜さんが電話を取ったけれど、二言ほどやり取りを
交わしたと思うと、すぐに電話を切ってボクに向き直った。
「あの子の容態が急変したらしいわ。車を手配するから、すぐに病院へ向かって」
「車なんて、待っていられません!!」
 そう言い残すと、ボクは全てを放り出して夜の街路へと飛び出していた。


『・・・とうとう、夢の最後に辿り着いたんだ。ボクの直感が正しければ――間違いなく、
優佳は戦ってる!』

 あの時と同じ種類の絶望と哀しみが、染みのようにボクを蝕んでいく。だって、優佳が
戦っている相手は、ただの化け物なんかじゃないんだ。あの世界が誤った道を選んだ時に、
全てを炎で消滅させて再生させる役割を与えられた、悪意より生まれ出る神――邪竜神の
一柱。それを、たった一振りの剣で倒さなければならないなんて・・・


――大丈夫、優佳は役割を果たしてくれるから。歩ちゃんの仕事は、これからだよ。


 声が聞こえた。優季さんからの、静かで確信に満ちた声がボクを勇気付けてくれる。
 そうだよね。ボクがいまここにいるのは、お兄ちゃんをボクのいる場所へ呼び戻すこと
なんだから。ささやかに夜の闇を払う街灯の狭間。薄闇に支配されている世界を駆け抜け
ていく中で、あの時の出来事が繰り返し、思い起こされる。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 ボクの全てが白い風に奪われていった最後の時、遠くから呼ぶひとつの声を感じた。
「そんな簡単にあきらめてしまうなんて、ルティルらしくないよ」
 ひとつの声、忘れられない声、それは・・・ボクと同じ声。ゆっくりと瞼を開けた先に
佇んでいるのは、ボクと同じ姿をしている、もう1人のボク。
「キミ・・・最後まで、見届けてくれたんだね」
 生まれる前から、ずっと一緒にいたボクの半身。さっきまで、風の精霊石という名前で
呼ばれていた、もう1人のボク。

「ルティルの祈り、ボクと優佳の所までしっかり届いたよ。その力で、優佳は役目を果た
すことができたんだから」
「でも、ボクとの約束はまだ守ってないよっ!!!」

 ボクを1人ぼっちにしないという、最後の時に交わした約束。それを投げ出しておいて、
ボクの断りもなしに勝手に遠くに行ってしまった――その事だけが、ボクにはどうしても
許せなかった。でも、そんなボクに、キミは語りかけてくれた。
「だったら、守ってもらおうよ。優佳が約束を破ったりしたら、風の届く限り追いかけて
舌を抜いちゃうって、言ったじゃない」
「できるようなら、とっくにそうしているよっ!! でも・・・・どんなに探したって、
どんなに声を枯らしたって、優佳は見つからないんだから」
 だから、ボクはせめて、優佳のいなくなった場所で、一緒に――

 そう思ったボクの身体を抱き起こして、もう1人のボクは教えてくれた。ボクが本当に
目指して、追いかけていく先の世界を。

「次元の狭間、そこが優佳の行った場所。そこからもっと先にあるのは、優佳が生まれた
もう一つの世界。どうせ追いかけていくのだったなら、それくらいはルティルも頑張って
みなくちゃね」
 そう言えば、優佳も話してんだね。優佳は、本当は、この世界の人間じゃないんだって。
ある事故がきっかけで、こっちの世界に飛ばされて来て、もともと住んでいた世界には、
ボクとうりふたつの妹がいるんだって。そして、キミはどんなことをしたって元の世界に
帰るって、そう言ってボクを突き放した。でも――キミはボクとの約束を破ったんだよね。
ボクは――諦めないんだから。キミに泣いて謝ってもらうまで、そこがどんな世界だって、
追いかけて行くよ。

「・・・お願い、力を貸して。優佳を――風の届く限り、追いかけていける力を」
 失いかけていた気持ちが輝きを取り戻していく。ボクには、もう優佳を追いかけていく
こと以外には、何もできないんだから。キミがいなかったら、もうボクは駄目なんだから。
だったら、ボクがやることは1つだけ。キミのことを、どこまでも追いかけていくだけ。
「うん、いいよ。でも、ひとつだけ覚えておいて。あっちの世界に辿り着いた時、きっと
ルティルは、ルティルではなくなっている。どんな形になるのかは、ボクにも分からない
けれど、それでも優佳の近くにはいるはずだから、頑張って想いを見つけてね」
 ボクともう1人のボクの周囲に、緑色の光が点っていく。二度とこの世界には戻れない
けれど、自分で選んだ道に悔いは無かった。ただ、フォルラータの姫として、国の未来を
勝手な理由で投げ出して、目の前のボクに押し付けたことだけが、申し訳なかった。
「ごめん・・・力を全て使わせちゃう上に、ボクの大変な仕事を全部押し付けちゃった。
誰も気がつかなくたって、ボクだけはキミのこと、絶対に忘れないよ」
「忘れるわけ無いじゃない。ボクとルティルは生まれる前から1つの存在だったんだから。
こうして一緒に生まれてきたのも、きっと必然だったに違いないんだよ。このボクが腕を
振るうんだから、こっちの世界のことなら、ぜんぜん心配はいらないよ。だから・・・」

 この世界での最後の記憶。それは、もう1人のボクの笑顔と、その瞳に光る涙だった。
「ルティルは、今度こそ優佳を離さないで。そんなこと、絶対にダメだからね――」

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 ここでボクが優佳の手を離してしまったら、今度こそ、優佳とは二度と会えなくなって
しまう。そんな予感が、警鐘のように胸に響き続ける。息をすることさえも忘れてしまい、
狂おしいまでに、足が止まらない。これくらいでは駄目なんだ。もっと早く、もっと速く、
疾く!! 心があげる悲痛な叫びを支えようと、身体が壊れそうになってもボクの衝動は
止まろうとしない。
 壊れたっていい。優佳がボクを受け止めてくれて、ずっと一緒にいてくれるって、そう
約束してくれるなら、ボクは一生分の全部の力を使いきったって構わない。誰よりも疾く、
何よりも疾く、ボクはただ1人の誰よりも好きな人のために、全てを捨てて風になった。

 そんな中、突然に身体が宙に浮いた。間抜けなくらいにゆっくりと動いていく、周りの
景色。ボク、空に上ったのかな――そう思った次の瞬間、ボクの身体は惨めなまでにアス
ファルトに叩きつけられていた。街灯の薄明かりに照らされた自分の身体を、ぼんやりと
見つめながら、ボクは初めて自分がもう動けなくなったという事実を知った。
 声が出ない。体中が石になってしまったみたいに、重くて関節が動かない。また、あの
日を繰り返すの? ボクはキミが一番大変な時に、傍にいることさえ許されないの?
 一緒にいたい。同じ時間を共有したい。それだけが欲しくて、ここまで追いかけて走り
続けてきたのに、ボクにはその力も無いという事だったの!?

 そう思った時、いつの間にかボクの身体を優しく包んで、支えてくれる感触に気付いた。

「歩ちゃんったら、いくらなんでも無理しすぎです。まさか、追いつくまでに、これほど
時間が掛かるなんて、思ってもいなかったんだから・・・」
 クロスバイクに乗った流香さんが、ちょっとあきれるくらいの口調でボクを支えながら
自分の身体に掴まらせてくれる。返事をしたかったけれど、ボクは殆ど喋れなかったから、
返事の代わりに流香さんの背中を力なく抱きしめた。
「優佳さんを待っているのは、歩ちゃんだけじゃない。優季ちゃんだって、私だって――
想いを支える時だって・・・、みんな、一緒なんです」
 背中越しにそう言い残すと、流香さんは足を踏み出す。そして、ボクと流香さんは再び
優佳の元へ疾り出していた。


 まもなく車で追いついてきた優季さん達とあわただしく合流して、お兄ちゃんが待って
いる病室に駆け込むと、お兄ちゃんを担当しているお医者さんが出迎えて、手短に容態を
教えてくれる。体表の温度と心拍数が、異常値にまで高まっていること。この峠を抜けた
後には、もうお兄ちゃんが帰ってこないか、目覚めるかのどちらかだということ。既に、
施せるかぎりの処置を終えていて、あとは見守ることしか出来ないということ。だから、
これからはずっと、いつまでも付き添っていて、いいということ。

 もちろん、此処に来たからといって、ボクに出来ることなんて殆どないって分かってる。
でも、お兄ちゃんの傍にいる限り、手を繋いでいられるし、話しかけることだってできる。
つないだ手は、焼けるように熱かったから、辺りに微風を巡らせて、熱が溜まらないよう
冷ましてあげた。
 優季さんは、願っていた――祈っていた。お兄ちゃんが、また戻ってきてくれるように。
流香さんは、綾花さんを連れて一旦家に帰って行った。それは、綾花さんが自分の干渉を
恐れたことが第一の理由だったけれど、お兄ちゃんの状態が長引いた時には必要なものが
色々出てくるから、そのための荷物を用意するためという事もあった。

 限りなく長く感じられる一夜。時計の秒針さえも凍りつきそうな時間の中、優季さんと
ボクは想い、そして願う。欲しいのは、もう一度の笑顔。望んでいるのは、共に歩む日々。
夜がいっそう深みを増していく中で、ボクは薄い意識の中で優季さんを見つめると、優季
さんも、ボクに気付いて優しく微笑んでくれた。
「優季さん――ボクの気持ち・・・お兄ちゃんに届いてますか?」
「もちろん、歩ちゃんの想いだもの。きっと届くに違いないよ。届いているに、決まって
いるよ・・・」
 でも、そう言葉を継ぐ優季さんの微笑は、今までに見た中で、一番哀しげなものだった。
やがて、一抹の陰りと哀しみを浮かべた優季さんの眼差しが、ボクを、じっと見つめる。
「歩ちゃん・・・少しの間、目をつぶって」

 言われたとおりに目をつぶると、優季さんの声だけが聞こえてくる。今のボクには優季
さんの表情も、しぐさも伝わってこない。優季さんの心の声だけが、音ひとつ無く広がる
波紋のように、ボクの心を濡らしてくる。
「これから話す言葉は、ぜんぶ私の独り言・・・聞こえても、答えることは無いよ。聞き
たくないのなら、聞かなくてもいいよ。歩ちゃんが離れていても、耳をふさいでいても、
私は気が付かないから――」
 ボクは、何も答えない。それを、ボクの答えを受け止めて、優季さんは言葉を続ける。
「歩ちゃんは、今でも優佳のことが好きなんだね。たとえ、優佳の妹として生きている、
今の姿でも」
 それは、ボク自身が幾度も繰り返してきた問い掛け。でも、ボクの気持ちは変わらなか
った。ボクの想いは、お兄ちゃんへの想い。それは、決してルティルから引き継いだ借り
物の想いだけじゃない。妹としてのボクが自分で抱いて、育ててきた想いでもあるんだ。
「お兄ちゃんは――優佳は、本当のボクを見つけてくれたんです。いつも窮屈なドレスに
身を包んで、それでも精一杯に与えられた役目を演じているボクじゃない、ありのままの
ボクを見つけて、いつも変わらない笑顔で向き合ってくれた。まるで――頬を撫でる風の
ような人。今だって、昔だって、お互いに本当のことなんてまるで知らなったはずなのに、
何もかもを忘れてしまっていたはずなのに・・・それなのに、いつの間にかどうしようも
ないくらいに好きになってました。どうして、なのかな・・・」
 想いを見つめなおすボクの言葉に、優季さんの想いが重ねられる。

『でも、私も優佳のことが好きなんだよ。たとえ、想いが叶わなくたって』

 こんなにも近いのに、殆ど触れたことが無かった優季さんの本当の想い。お兄ちゃんの
手を強く握ってしぼり出された、優季さんの言葉はボクの心に一瞬で風穴を開ける。
「ずっと前から見つめていたはずなのに、いつの間にか離れていってしまう。此処でも、
そして、遠い昔にも。どうして・・・、なのかな・・・」
 優季さんの声が、少しずつ擦れていくのが分かる。ボクは、この時まで気付かなかった。
優季さんは、自分の泣く姿を見せることで、ボクを傷つけたくなかったんだ。でも、ボク
には優季さんを支えることはできないんだ。自分の気持ちを知られてしまったから。この
気持ちを抱き続ける限り、優季さんを支えようとしてもそれは全部嘘になってしまうから。
でも、どうしてなのか分からないよ。優季さんの抱いている想いがボクより弱いという訳
じゃないし、その強さは流香さんだって同じだと思う。ずっと追いかけて、見つめ続けて
きたからこそ、痛いくらいに優季さんの辛さが伝わってくる。
 ボクが優季さんだったら、自分に振り向いてくれない優佳のことが憎くて、悔しくて、
許せないと思ってしまう。でも、優季さんはボクとは違うんだ。誰よりも、自分よりも、
まず大好きな人がいて、その人の幸せを大切に思える所から想いが始まるんだ。だけど、
このままだと優季さんは、永久に想いに縛られてしまう。
 ボクが、初めてあこがれを抱いた人。
 ボクを、初めて女の子として認めてくれた人。
 ボクに、全てを打ち明けてくれた人。
 優季さんだったら、認めるしかない――優季さんにだけ、お兄ちゃんを奪う権利がある。
お兄ちゃんの妹として、かつてのボクはそう思っていた。
「・・・だったら、どうして諦めようって思うんですか。お兄ちゃんを振り向かせようと、
どうして思わないのですか」
 ボクの言葉に、息をのむ優季さん。目を開いて優季さんを見つめると、言葉を待たずに
さらにボクは続ける。
「優季さんの想いが、ボクや流香さんと変わらないのなら――ボクが掴んだ優佳の手を、
振り解いて見せて下さい」
 これは、ボクからの精一杯の答え。もう一度、お兄ちゃんが目覚めた時は、優季さんに
負けないくらいに好きな気持ちを告白しよう。誰にも取られないように、離すことがない
ように。お兄ちゃんの妹としてのボクの恋は、これから始まろうとしているんだから。

「歩ちゃん――想いを抱いて、たくましくなったのね」
 一瞬、生命の息吹がそのまま流れ込んできたかのように、清冽な香りが辺りを包み込む。
振り返ると、月光に青く輝く花束を胸一杯に抱いて、流香さんが佇んでいた。
 青い花束・・・沙夜さんが、いつかボクに教えてくれた。青い花は、信頼、誠実、純潔、
そして、幸せの象徴。

「その花束・・・・流香が、ずっと大事に育てていて、いつまでもずっと咲き続けていた
お花・・・・最初から、流香は、そうするつもりだったんだね」
 優季さんの声は、かすかに震えていたけれど、何故そうなったのかボクには分からない。
でも、流香さんは優季さんの言葉に答えることなく、ゆっくりと花束を抱えて優季さんの
前に歩み寄ってくる。
「ずっと前から、決めていたの。いつか、この時が来たらこうしようと――今度は、私が
優佳さんを助ける番です」
 ゆっくりと言葉を紡ぐ流香さんの姿は、ボクにはまるで春の野に咲く花のように思えた。
厚く積もった雪の中から、はじめて姿を現した時のような、どこまでも一途で美しい花。
「・・・・流香はもう、知っている――ううん、思い出していたんだね。その花を使えば、
流香の寿命と引き換えにして、優佳に生命を分けられることを」
 優季さんの言葉の意味を、ボクは一瞬理解できなかった。違う、ボクの心が凍りついた
ように強張ったんだ。自分の生命を危険にさらしてもお兄ちゃんを助けようという思いを、
ボクよりも、優季さんよりも、先に流香さんが心に決めてしまった。その事実を認めたく
なかったから。

「流香・・・生命を分けるということは、ものすごく辛い事なんだよ。大切な人を助ける
代償に、一緒にいられる時間を、季節を、共有できるはずの思い出を、幾つも失うことに
なるんだよ。それに、流香だって――もしかしたら、二度と外に出歩けない身体になって
しまうかもしれないんだよ・・・・」
 もしも、これが流香さんと優季さんの冗談だったら、どんなに幸せなことだろうと思う。
でも、流香さんの背に腕を回してすがりつく優季さんの様子は、二人の言葉が紛れも無い
真実であることを、ボクに教えていた。
「心配はいらないよ。私はもう、抱えきれないくらいに、多くのものを貰ったから。優季
ちゃんからは大切な生命を、そして、優佳さんは――生きることの意味を。それを知って
いる今、私は生まれ持った命の輝きを粗末にしたりはしない」
 でも、ボクは納得できなかった。
「どうして・・・どうして、そんなことが出来るんですか!? 通じないかもしれない、
そんな想いの為に、自分の全てを捧げてしまうなんて、そんなことが・・・」
 誰よりも大切な人のために、何よりも大切なものを捧げてしまいたい。そんな願いは、
恋をしていれば誰だって抱いて当たり前だってことくらい、ボクにだってちゃんと分かる。
本当は、流香さんの代わりにボクが、お兄ちゃんと生命を通わせたかったんだ。それが、
ボクに出来ない望みなのだとしたら、せめて、流香さんが胸に抱いている思いだけでも、
ボクに伝えて欲しかった。

「愛しさに溢れる思い出と、遠い過去からずっと紡ぎ続けてきた想いがあるから。それに、
身体も、心も、全てを捧げることができる強さだって・・・みんなが、私に教えてくれた。
深い愛情に育くまれた花は、美しく咲いて生命を輝かせることで、気持ちに応えてくれる
――だから、私はただ、自然に自分の気持ちに従っているだけなんです」

 流香さんは、きっと、花の精霊に祝福されて生まれてきた人なんだ。誰よりも深く花を
愛していて、小さな生命のひとつひとつにある輝きと価値を、本当の意味で知っている人。
流香さんは、きっと自分の生命の大切さだって分かってる。流香さんの身に何かがあれば、
優季さんやお兄ちゃん――それに、ボクだって悲しまずにはいられないという事も。
「だったら、せめて、ひとつだけ約束してください。必ずお兄ちゃんを連れてくるって。
そして、ボクと優季さんにも余計な世話を焼かせないって」
 あっ、お兄ちゃんと約束する時の癖で、ひとつのはずの約束を、ふたつも出しちゃった。
でも、流香さんはいつものように余裕を見せて、笑顔でボクの約束に応えてくれた。
「約束するよ。『私はもう、優季ちゃんを悲しませるようなことはしません。これから先、
どんな事が起こっても、永久に優季ちゃんに添い遂げることを誓います』――なんてね」
「もぅ、流香ったら・・・歩ちゃんと優佳の前でそんなこと言われたら、私だって、少し
困っちゃうよ・・・」
 最後になるかもしれないのに、優季さんと流香さんは微笑みを交わす。それは、ボクと
優佳の関係と変わらない、この世界に生まれる前から、ずっと続いている絆の証だった。


 それは、一瞬だったのかもしれない。でも、その場にいる誰もにとって、永遠のように
長い口づけだった。誰よりも愛しい人と出来たのに、誰よりもせつない。愛しい気持ちの
持てる全てを唇にのせて、束の間に捧げ尽くすための儀式。流香さんは、携えていた花束
の中から最も月光に映えていた一輪の花びらを口に含むと、そのまま優佳と口づけを交わ
し始めたんだ。
 ボクは、目の前で起こっている事がどういうことなのか、にわかに理解できなかった。
けれども、理由も分からないままにあふれ出る涙が、ボクの気持ちを教えてくれた。

「もうやめてよっ!! 優佳にこれ以上近づかないで!」

 ボクは思わず口走っていた。お兄ちゃんと誓いを交わしてもいいのは、ボクひとりだけ
なんだから――
 流香さんの身体にしがみついて、引き剥がそうとするけれど。流香さんはそのまま離れ
ようとしない。ボクがそうであるように、流香さんも必死だった。優季さんがボクを後ろ
から取り押さえようとする。どうして、どうして優季さんまでボクの邪魔をするの・・?
優季さんだって、ボクと気持ちは同じはずなのに!!
 我を忘れて優季さんの手を払い飛ばそうとするボクの頬を、誰かが音高く打ち鳴らした。

「歩は、ワガママ過ぎるんだよ。るかちゃんが、生命そのものを賭けて戦っているのに、
何もしていない歩に、何の資格があるっていうの?」

 これが、生まれて初めてだった。どんな失敗をしても、どんなに迷惑をかけた時でも、
紗織だけは、いつも笑ってボクを許してくれていた。これまで、本気でボクに手を上げた
ことなんて一度たりとも無かったのに――この時、ボクは初めて気づいた。紗織の想いが
本当は何処にあるかを。
 同時に、流香さんの身体がベッドからずり落ちそうになる所を、優季さんが受け止める。
「こんなに酷くなってしまうまで続けていたなんて・・・急いで、沙夜さんにお願いして。
綾花のもとへ流香を連れて行ってくれるように。流香が・・・、流香の身体が・・・・・
とても・・・冷たいの。とても、治療が追いつくような状態じゃない!」
 意識を失った流香さんの瞼には、大粒の涙が一粒、願いの結晶のように輝いていた。

 それから、しばらく慌しい時間が過ぎていって、流香さんが病室の外に連れ出されて、
残っているのはボクとお兄ちゃんの2人きりになった。夜の闇の中、此処にあるのは薄い
照明に浮かぶお兄ちゃんの寝顔。聞こえる音は、ボクと優佳の息遣いと、腕時計の秒針が
かすかに刻んでいく時間だけ。
 この一夜で、ボクは知らされた。ボクの周りにいる人達が、どれだけお兄ちゃんの事を
強く想っていたのかを。ボクは、優佳への想いが誰よりも強いって、何も知らないくせに
勝手にそう思い込んでいただけだったんだ。

「約束・・・守ってくれるよね。ボクに誓った約束、ちゃんと叶えてくれるよね。だって、
それは永久の絆なんだから。ボクと優佳を繋いでいる、確かなものなんだから」

 じっと手を握りながら、語りかける。見つめながら、ささやきかける。今のボクに1つ
だけ残されているもの。信じていることができるものは、優佳との約束だけだった。必ず
守ってくれるって、ボクはそう信じているよ。たったの半年もない時間だけだったけれど、
その記憶はルティルの14年の歳月の中で、何よりも輝いていたから。優佳は、ボクとの
約束を忘れてしまうようなことは、絶対に――そ、それは、忘れた事だってあったけれど、
優佳はボクのことを、とても大切に想っていてくれるって信じているから。この瞬間にも、
ボクの想いを感じているに違いないって、いつまでも信じ続けているんだから。
 明け方を前に薄れゆく意識の中で、声に出さない想いが繰り返される。お兄ちゃんと、
これからもずっと歩いていきたい。2人で手を繋いで、春風の中に舞ってみたい。今年も、
来年も、再来年も、ずっと生命が続く限り一緒に人生を歩き続けたい。いつの日か、また
生まれ変わる時が来たとしても、何度だって巡りあって、次の生を共にしたい。

 手の温もりだけだと心細い。もっと、強く繋がりたい。もっと、ボクを安心させてよ。
優佳の存在を、もっともっと感じていたいよ。誰よりも、近づきたい。誰も入れなくなる
くらいに、ボクは優佳に近づいていたい!

『これが、ボクの気持ちだよ。優佳――』





 気が付くと、ボクは全てを脱ぎ捨てて優佳の胸に肌を重ねていた。冷たい外気に曝され
たボクの身体を、少し汗ばんだお兄ちゃんの身体が温めてくれている。初めて感じた肌と
肌の擦れ合う感覚は少しくすぐったいけれど、今までとは比べものにならないくらいに、
ボクは優佳と繋がっている。ボクは、そんな自分を愛おしく思った。

 やがて、意識が真っ白に染まっていく。もう言葉なんて必要ない。白く、何ひとつ見え
ない世界の中で、ボクは想いで語りかける。

『やっぱり、気持ちにウソなんてつけないよ。ボクが優佳の妹でも、抱く気持ちはずっと
変わらないから』


『・・・・・・・・・・・・』


『だから、帰ってきて。身体がもう大丈夫なことくらい、もう分かっているんだよ』


『・・・・・・・・・・・・・俺にとって、歩は故郷のような存在だった。希薄な記憶に
しがみ付いて、自分を保とうと必死になっていた時間の中、俺はいつも目の前にいる筈の
妹を追い求めていた。心の奥底では、一度消えかけた歩の面影を、必死に探し続けていた
んだ』


『それが、優佳にとってのルティルだったの? ボクは、結局かわいい妹の代わりでしか
なかった――そういう、ことなの?』


『そうだったのかもしれない・・・・でも、他人として出逢って、それから、妹のような
子にも接して、俺は初めて分かったんだ。一緒にいることが当たり前だった歩が、どんな
存在だったのか。歩に対して抱いていた気持ちが、普通に妹に対して感じる以上の特別な
感情だったことを・・・』


『だったら、ボクのところまで帰ってきてよ。ボクと、ルティルの想いを満たすために。
そうするには、お兄ちゃんが帰ってこないとダメなんだよ――』


『・・・・・・・・でも、この世界で俺を好きになるということが、どういう事なのか、
その重さを知っているのか? どんなに辛い目にあっても、俺がいつも傍にいる。そして、
俺が存在し続けることは、余計に歩を苦しめることになる。こんな現実に引き戻されたと
しても――それでも、歩は後悔しないって言い切れるのか?』


『辛い気持ちだったら、今までにも十分にしているよ。お兄ちゃんへの想いを、別のもの
だと思い込もうとしたり、忘れようとしたのに忘れられなかったりして、ボクがどんなに
傷ついてきたと思ってるの? でも、今すぐボクの目の前に帰ってきて、謝ってくれたら
許してあげる。女の子は、キミなんかが思っているよりも、ずっとずっと強いんだから。
優佳と一緒にいられるんだったら、ボクはどんな世界にいたって幸せになれる。超鈍感な
優佳には、一生分からないかもしれないけどね☆』


『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・俺も、会いたいよ。俺なんかのことを思って
くれている人に、もう一度会いたい』


『もう一度、なんかじゃないよ。これからも、ずっとだよ・・・永遠の、約束だよ――』






 目覚めた時、病室はやわらかな光に包まれていた。もう、朝になって・・・違う、日の
向きからすると、もう昼下がりの時間。背中に掛けられた毛布のあたたかさに、つい身を
委ねたくなってしまうけれど、抜け出して辺りを見回してみる。
 白一色で統一された内装の病室に、薄いカーテンが水色の彩りを添えている。その中で、
ひときわ赤く目を引く物が、ボクの視界に飛び込んできた。

『優季さんが、いつも身に着けていた、赤いリボン――』


 手に取ると、優季さんのリボンの中には、手に収まる位の小さな小箱と、1枚の手紙が
包み込まれていた。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
おめでとう、歩ちゃん。
優佳を、連れてきてくれたんだね。

歩ちゃんがくれた言葉、びっくりしてお返事できなかったけれど、嬉しかったよ。
でも、私は流香が倒れた時に、優佳ではなく流香の傍にいることを選んでいた。
そして、歩ちゃんのように、優佳のために全てを捧げることもしなかった。

だから、私は決めたの。私が――砂倉優季とパルフェが抱いてきた優佳への想いは、全部、
歩ちゃんに託そうって。

だから・・・・

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 ボクは手紙を読みながら、胸の痛みを感じずにいられなかった。そこには、優季さんが
自分の想いを託すための、最後の願いが描かれていたから。

 優季さん、ごめんなさい・・・・ボクと優佳を2人っきりにしてくれたのも。そっと、
毛布をかけてくれたのも、優季さんだったんですね・・・・・きゃあっ?! もしかして
優佳とボクの姿、みんな優季さんに見られちゃったんだ!!?
 急に恥ずかしくなってきて、ボクはきっと生まれてから一番速いスピードで優季さんが
丁寧に畳んでくれていた自分の服を着て、胸の鼓動を落ち着けようとする。どうしよう、
ボク、優季さんに一生で一番恥ずかしい所を見られちゃったよぉ!

 お兄ちゃんは――熱も下がっているみたい。昔と変わらない、温かい手の感触が・・・
ううん、違う! お兄ちゃんの手が、ボクの手を握ってくれている――暖かく、握り返し
てくれている――これって、もしかしたら・・・・!!
「うぅ・・・・・・」
「あっ・・・。気が・・・、ついた!?」
 どれだけ、待ち続けただろう。やっと、やっと帰ってきてくれたんだっ!!

 ボクは思わずお兄ちゃんの胸に向かって飛び込んでいた。ボクの胸から高なる鼓動が、
優佳の鼓動と響きあう。
「・・・ルティル?」
「お兄ちゃぁんっ!!」
「うわっ!・・・あ、あれ、歩?・・・」
「よかった・・・、よかったよぉ・・・。お兄ちゃんが目を覚ましてくれて・・・」
 動いてる。喋ってる。間違いなく、ボクの前で生きている。ボクは、お兄ちゃんの身体
を思わず、力いっぱいに揺さぶってしまう。
「あ、ああ・・・。大丈夫だ・・・」
「ぐすっ、ひっく・・・。お兄ちゃんまで死んじゃったら、ボク、どうしようかと思っち
ゃったよぉ・・・」
 止め処なく流れるのは、嬉し涙。今までの悲しみも、切なさも、全てを洗い流すように
こぼれ落ちていく。でも、なんといっても、今日は特別だから。お兄ちゃんにまた会えた
時だから、いくらでも涙を見せられる。やっぱり、ボクがここまで素直に想いをぶつけて
いられるのは、お兄ちゃんだけなんだよ。
「・・・そうか。ごめんな、心配かけたみたいだな」
「ボクを一人ぼっちにしちゃ、やだよ!」
 もう一度、この言葉を繰り返す。今度こそ、ボクから遠くに行って欲しくないんだから。
これからは、ずっとボクの傍にいて欲しいって、心の奥底から思っているんだから。
「心配するな、すっとお前の側にいてやるよ。・・・この世界でも」
 うん――ボクばかりが、お兄ちゃんとの再会を楽しんでいるのって不公平だよね・・・
お兄ちゃんが戻ってきてくれたのだって、きっとルティルがボクと一緒にいてくれたから。
これから、ほんのすこしの間だけ、ルティルにも代わってあげる。
「・・・うん。ずっと前の約束も・・・・・・、やっと守ってくれたんだね・・・。ずい
ぶんと長い間、待たされちゃった」
「!!・・・歩!?・・・」
「風の届く限り・・・、追いかけて来たよ・・・」







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