新春対談「綾花&流香の超初歩調香理論講座」



第一講〜花の匂いの完全再現



(収録:某喫茶店2階)

「お客様、明けましておめでとうございます☆」

「綾花ったら、ここは別にお店じゃないんだから・・・・」

「でも、私にとっては此処を訪れて頂いた方々は、みんな大切なお客様よ」

「ふふ。綾花のそういう所って、今年になっても変わりそうに無いわね」

「ところで流香・・・」

「なに?」

「新春対談なのに、どうしてテーマが調香理論なの?外の人達だったら、今年の方向性や

お正月の遊びをするのが当たり前なのに・・・・」

「それをやろうにも、歩ちゃん達は温泉旅行に行っちゃったし、紗織ちゃんは冬の祭典で

砕け散ってしまっているから・・・・ううん、決してお正月ネタの消費期限が切れたから

ではないの」

「鏡餅にカビの生えた時期に新春対談――これも、運命なのよ」

「ぐすん・・・」

「流香、悲しまないで。私達には、まだまだ大切な人がいるじゃない」

「はい。この日の為にお呼びした特別ゲスト、砂倉優季さんと水際沙夜さんです☆」

「こんにちは、今日も張り切って解説しちゃうからね♪」

「優季の場合、話を無意味に難しくするのがオチよ。本来なら私だけで十分なのに・・・」

「うゅぅ・・・・・」

「このように、私達だけではお話ししきれない専門的な部分についても分かりやすく解説

して頂ける、非常に心強い方々です」

「綾花、原稿を棒読みするだけの役なら、いっそ退場しなさい」

「ちょっと、沙夜さん!?綾花はまだ、あまり人前に出るのが慣れていなくて――」

「・・・分かりました。仰るとおり、こんな紙切れなんて・・・(握搾)」

「いい度胸してるじゃない。少しだけ気に入ったわ」

「でも・・・、話は主題からどんどん離れていってますよ?」

「さすがは優季ちゃん。本質を的確に把握しています☆」





・原料編



「綾花のお店って、いつも素敵な花の匂いが漂ってくるよね」

「それは当店のポイントだもの。いつも部屋一杯に花を咲かせて大切に世話しているから

こそ、この香りを揃えられるの」

「でも、この香りをもっと簡単に、身に付けられる形として手に入れられないのかな?」

「それが、今回のテーマなのよ」

「花の匂いを再現するのなら、お花から集めればそれでいいんじゃないの?」

「そこまで単純な話だったら、最初からテーマにする必要なんて無いわよ」

「では、本格的な話に入る前に、これまでに行われていた香り原料の入手方法について、

振り返ってみましょう」

「香りの天然物素材の効用については、数千年も前から見出され、調香の原料として利用

されてきました。当時は香料としての用途よりも、むしろ病気の排除や治療といった薬物

としての利用が主なものでしたが、エジプトやギリシアの古代文明では、香りを放つ植物

素材を軟膏状の油に浸けて軟らかくし、皮膚につけたりワインの中に入れたりしています」

「当時は精製技術が進歩していなかったから、原料を丸ごと使っていたんだね。無意識に

原料を煎じたり、油に浸けたりする抽出操作が、精製そのものだったのよ。中世になると、

アラブの科学者達が水蒸気蒸留(湿らせた植物の中に高温の水蒸気を通り抜けさせて留出

した成分を冷却・堆積させる方法)を開発して、ここで初めて高純度の天然精油の利用が

可能になったの」

「さすがは優季さん、化学関係には強いですね」

「18世紀になると、発酵アルコールの蒸留法が確立されて濃縮アルコールの利用が可能

になったわ。この事によって、素材をアルコールに浸して製造するチンキ類の製造が可能

になったのよ」

「でも、現在では一部の高級香水等にしか使われていないわ。価格と実務上の理由の方に

問題がありすぎるのよ」

「それに、18世紀の終わりごろになって、全く新しい花の香気成分抽出法が起こったの」

「ええっ、そうなの!?」

「アンフルラージュ(冷浸抽出法,enfleurage)。花を動物の脂肪層の上に直接くっつけ

たり、敷き詰めて置き、その脂が香気成分を吸収する仕掛けよ」

「この脂をアルコールで洗浄して成分を回収した後、そのアルコールを蒸発させたものが

アブソリュート(absolute)と呼ばれる濃縮物です。ただ、この方法も人件費が非常に

高くつきますので、アンフルラージュ法抽出は殆ど行われなくなり、今日ではごくたまに

チュベローズの抽出に使われるだけです」

「あまり関係ない話になるけど、チュベローズって、どんなお花なの?」

「オランダズイセンともいわれている、温かみや安らぎを持った豪華な香りが特徴のお花

なの。かつてはお葬式用のお花として大量生産されていて、そのイメージから結果的には

人気が落ちているけれど、香りの良さなら折り紙付きなの。野生の花は、香水原料となる

お花の中では最も高価で豊富に採取されているし、栽培して他のお花とブーケにするのも

いいわ。麻酔薬、睡眠薬の薬効もあって、花言葉は『危険な楽しみ』・・・という所で、

いいかしら?」

「流香って、そんなにも詳しかったんだ・・・」

「さすがに、開店以来ウチの常連をやっているだけのことはあるわね」

「そして、20世紀に入って石油精製法が進歩した時、さらに状況が一変したのです」

「ベンゼンやヘキサンのような、高純度の揮発性溶剤が、簡単に手に入るようになったん

だね」

「これらの溶剤が、植物素材の抽出に非常に有用だったのです。これらの溶剤は植物中の

ワックス分をも抽出してしまい、溶剤を除いた後にはワックス状の混合物(コンクレート、

concrete)となるのですが、これをアルコールで洗浄したものがアブソリュートとされて

いるのです。樹脂とか、乾燥した葉や苔といった素材は水を含んでいないのでアルコール

で直接抽出する事ができますが、こうして得た抽出物の多くは、粘り気があったり固まっ

たりしていますので、レジノイドと呼ばれています」

「こうして見ると、精製技術の発展がどんどん新しい素材を提供していったんだね。精製

技術の発展は今でも続いているし、分留蒸留や共真空蒸留を使えば天然製油からかなりの

高純度で単品の合成香料を作れるしね」

「それは、アイソレイト(単離品,isolate)と呼ばれているわ」

「もうひとつ、外せないのが合成香料の存在です。1866年にトルエンからベンズアル

デヒドが製造されて以来、数千種類の合成香料が生み出されています。合成アルデヒドの

存在が『シャネルNo5.』や『アルページュ』といった香水の誕生に深く関わったのは

まぎれもない事実ですし、フェニルエチルアルコールは調香に欠かせないローズ系の原料

として活躍しています」

「しかし、これだけの原料を揃えても、これだけの方法を用意しても、お花の生き生きと

した香りを再現する事は難しいのです」

「考えてみれば当然の話よね。天然物を原料にしても、抽出や蒸留の過程で成分の変化や

反応が、全く起こらない訳が無いんだから。それに、天然の材料を過去と同じだけの分量

使うなんて、コストの上でも殆ど考えられないわ」

「だからこそ、このテーマが重大な意味を持ってくるのよ」





・調合編



「香りをそのままに取り出す事が駄目なら、私は同じ成分の混合物を作ろうと考えるよ」

「それについて詳しくお話しする前に、香りを組み立てる際の基本構成や、単位について

見てみましょう」

「最初から組み立ててしまえば、別に知らなくても出来ると思うけど・・・」

「それは科学を過信している人間の台詞よ。単なる模倣だけでは新しいものは創れないわ」

「ぅぅっ・・・・」

「優季ちゃんだって、花の香りの作り方は知りたいでしょ?」

「うん・・・・私、ちょっと勘違いしていたみたい。綾花、続けてちょうだい」

「典型的な香りの構成は、においが最も長く持続するベースノート(後立ち)が製品の約

半分を占めているの。次に、揮発性が中位のミドルノート(中立ち)が、装飾香として、

また、高揮発性成分とベースとの仲立ち等をしていているの。そして、最も揮発性の高い

トップノート(先立ち)には匂い始めをマイルドにしたり、清涼感を与える効果を持って

いるものが多いわ」

「そして、これらの各階層の基本構成によく用いられるのが『2種以上の香りがバランス

よく調和した組み合わせ』、アコード(accord)なの。これは本来音楽用語で、調和した

和音や複数の音という意味なのですが、まさに言い得て妙です。アコードには2〜3種類の

簡単な組み合わせが多いのですが、それは全てのタイプの香りをつくる上での基本構成要素

であるばかりではなく、それ自体がフレグランスとしての値打ちを持っています」

「石鹸や家庭用品といった実用向け最終製品にも、シングルフローラルノート(単純な花の

香り)として直接使うことができるわ。比較的簡単な組成の調合原料として、優れた出発点

なのよ」

「20世紀の前半にも重要なアコードが見つかっていますが、これらは当時創られた有名な

ベース(ここでは、調合の主要部分となる香料の組み合わせ)の中に、具体化しています。

成功したベースのいくつかは、単純なアコードを複数組み合わせて、それに装飾を施された

ものですが、これこそが、最終処方の香りに明確な性格付けを与える、フローラルベースと

なっているのです」

「アコードの大切さは分かったけれど、アコード同士を実際に組み合わせるのはものすごく

難しそう・・・」

「恐ろしく難しいわよ(きっぱり)」

「その口ぶりから言って、実際にやってみたんですね・・・」

「アコードは、できるだけ簡単な処方をつくるのが基本ね。いちど基本的なアコードが出来

れば、後から変調用の原料や天然物を加えて装飾する事ができるわ。もっとも、目標とした

花のタイプに準拠したアコードを組み上げ、さらに効果的なフローラルベースを、15種類

以下の原料で創りあげる事が出来なかったら、この時点で素直に考え直した方が賢明ね」

「たったの15種類だけなの!?」

「それ以上の種類でベースを作っても、それは、他のベースと混ぜた時に『濁り』の原因に

なる事が多いし、明確な特徴が弱くなる分、製品にしても大抵は力強さに欠けるのよ」

「つまり、単純さが基本なんだね」

「その通りです☆複雑な深い味わいのある香りも、全ては単純な出発点から始まっているの

です」

「ここに、もうひとつ単純さの面白いエピソードがあるわ。多くのフローラルノートを作り

あげている原料は、実は重複しているものが多いのよ。此処に揃えておいた瓶は、全く同じ

8種類の原料を違う割合で混ぜ合わせたものだけれど、そうするだけで、ジャスミンの香り

になったり、リラの香りになったり、他にも、スズランの香りや、ヒヤシンスの香りを生み

出せるの。さらに、この中の3つの香りは、殆ど全てのバラの香りの調合香料に入ってるの」

「それがまた厄介の素よ。材料が重複するベース同士を組み合わせたら、大抵は個性が相殺

してしまって、『何となく花っぽい香り』や『グリーン調の香り』で終わってしまうのよ。

バランスが取れた心地よい香りでも、製品にならないものなら何の意味も無いわ」

「例外は、安い価格で天然の花の抽出物を複製する場合ね。調合の基本構成としてではなく、

混ぜ合わせる香料に天然物の特徴を付け加える為のベースなら、複雑なものも許されるわ」

「さっきから、私の知らない話ばかりで、殆ど付いていけないよぉ・・・」





・分析編



「基本の解説は終わったから、優季ちゃんの得意分野に入ってもいい頃合いね」

「そうね。20世紀前半に普及した革命的な分析技術、ガスクロマトグラフィー(GC)の

解説は、優季にお願いする事にするわ」

「ようやく、私の出番なんだね☆」

「でも、出来るだけ簡単にしてね・・・(汗)」

「理屈や詳細を抜きに話すのなら、GCの原理はかなり簡単なの。例えば、紙や布切れの端

だけが、混ざり物の溶液や水溜まりとかに浸かっていて、水が上の方に染み込んでいく間に、

いつの間にか縞模様が出来てきた――そういう経験は、みんなも一度くらいならあるよね。

これは、水(移動相)の流れに乗ったそれぞれの成分が、通過する紙(静止相)の表面に、

繰り返し吸着したり離れたりしていて、そのスピード(≒吸着エネルギー)に差がある為に

分かれた結果なのよ」

「・・・全然、簡単じゃないような気がしますけど」

「それなら、『気体の各成分が、60mの毛細管を通る間に分かれてしまう装置』と考えて

しまっても構わないよ。さらに、この装置にオプションを搭載すると、それぞれの成分が何

なのかも殆ど判明するの」

「多くの場合は、調合香料の95%の構成部分と各成分のパーセンテージ、さらに百以上の

物質を特定することが可能になっているわ。更に、天然の花をサンプルにして自然な香りに

関する情報を得ることが出来るの」

「この技術の普及によって混合物は0.01%以下の成分まで検出できるようになり、経験則や

荒削りな化学分析と主していた成分分析の作業も、速度・精度の面で桁違いに向上したの。

ただ、検知器を潜り抜ける程に微量の成分が存在している場合とか、樹脂みたいに揮発性の

低い成分については、うまく分析できるとは限らないの」

「でも、このデータを自分の調香技術と結び付けている人たちは装置で分析するのが難しい

樹脂成分や微量成分の存在についても経験と嗅覚上のパターン認識で補えるから、分析値を

ただ読むだけでは得られない情報量を入手して、さらに良い結果を生み出しています。その

成果は、既にいくつもの製品を生み出しているのよ」

「でも、そうして本物に酷似した模造をしても、最終的には調香師による修正作業が必要に

なってくるわ。この技術の導入が、かって秘密のベールで包まれていた香水のレシピを殆ど

丸裸にしてしまったのは紛れも無い事実だし、本物への複製に有力なヒントを与えたことも

認めるけれど、結局のところ、分析はひとつの道標でしかなかったのよ」

「少なくとも、この技術がモディフィケイション(変調・修正)への応用といった、創造的

展開を容易にして、根源的な創作への一層の努力を可能にした効果は決して無視できません。

革命は、今も続いているのです」

「最後にいい所を持っていったわね・・・」

「優季がうまくまとめてくれた所で、いよいよ本質に切り込みます」





・現状と展望



「それで、結局のところはどうなっているの?」

「ごく最近の目覚ましい有機化学の進歩によって、天然の花の実際の構造とにおいに非常に

近い合成品も、既に出現しているの。これらの合成品は確かに貴重な成果ではあるけれど、

本物と完全にとって代われる程の天然再現の物質は、きわめて僅かしかないのが実情ね」

「それで、時々使われているのが天然製品を加えた製造法なの。例えば、花を蒸留する前に

ネロリ(ビターオレンジの花から採れる精油)の調合品を加えたり、フローラルコンクリート

からアブソリュートを作ってから、残りのワックスを入れてジャスミンを蒸留するといった

やり方ね」

「私が今やっているのもこの方法よ。こうした花香製品(surfleurs)は調合だけでは作り

だせない自然さを持っているわ。今でもなお、少量の天然素材は高品質の香りに欠かせない

のよ」

「やっぱり、頑張ってもなかなか自然にはかなわないんだね・・・」

「でも、これまでに新しく作られた香りは自然から学んだ結果だから、優季ちゃんのような

人たちには、これからもどんどん頑張って欲しいなぁ」

「たとえ、本物と殆ど同じ香りが合成できたとしても、それでお花の素晴らしさが無くなる

訳ではないし、その香りを楽しむ事で本物への関心が高くなるのなら、私は歓迎するわ」

「それには、流香や綾花のような目端の利いた消費者がもっと増えてくれる必要もあるわね。

残念な話だけれど、平均的な消費者は強さとか持続力といった働きの方に気を奪われがちで、

香りの美しさや微妙さ、典雅さはあまり気にかけていないのよ」







・追記〜美の生物学



「それにしても、花の香りって、どうしてこんなにも美しいのかな?」

「それは、きっと嗅覚が私達の意識の深層、ひいては遺伝的な感情の根源にまで通じている

からよ。あとは優季が適当に説明して」

「私達の嗅覚器は、長い進化の過程の中で、反応する成分の数を少しづつ増やしていったと

考えられているけれど、嗅覚に関わる神経組織とそのメカニズムは、太古から殆ど変わって

いないの」

「それだけ、香りは重要な情報だったのね」

「視覚や聴覚の発達以前から、生物は既に周囲の各成分を感知していたのよ。自分に有益な

情報を手に入れる為にね。それらの受容器は遺伝子に組み込まれ、受容細胞のメッセージは、

嗅覚葉を通った後、必ず大脳の中心部にある辺縁系(感情、快楽感、および性的生殖行動の

制御に関連した、無意識部分の形成器官)を通るように出来ているの。大脳半球に到達して

香りに名前が与えられるのは、実はその後」

「だからこそ、においは過去の体験を呼び起こす想起力を持っていたり、たとえそれを意識

していなくても、切ないまでに感情を震わせる事があるのね」

「人の嗅覚は他の哺乳類と比べても極めて弱いものだけれど、私達自身が動物の嗅覚感情と

無意識で結びついているのは間違いないというのが、今日の見解ね」

「でも、花がそういう成分をわざわざ作り出しているのは、どうしてなの?」

「最初は、昆虫や動物のフェロモンに似せたにおいで誘い込んで受粉の手助けをさせていた

みたい」

「夢の欠片も無い話を振らないでよ・・・」

「まあ、出発点はそんなものなんだけれどね。そこからなんだよ、多くの花や植物が、自己

主張を始めたのは――」

「お花たちが、進化の中でどんどんお喋りになっていったのね」

「この関係は、昆虫と花の関わりで最も顕著に表れたの。植物が進化して昆虫に花粉や蜜と

いった報酬を与えるようになって以来、最大効率の実現に向けた進化の圧力は非常に大きな

ものになったの。植物達は、それぞれが特異化した構造と香りを身に付けて、自分の種類が

昆虫に選ばれるように競争を始めたし、昆虫の方も、花の選り好みをする事で、自分向けの

食物に関係するにおいを先天的に記憶したり、仲間に伝える事を可能にしたのよ」

「その結果として、何百種類もの物質を持つ複雑なにおいが天然に合成されたのね」

「花の香りを蜂や蝶が実際にどう感じているのかは分からないけれど、その過程で作られた

香りのバランスや複雑さは、私達の美的感覚に通じるものを持っていたのよ。植物が適当に

混ぜ合わせて作った化学物質とは比べ物にならない独自性を持っていて、私達がその香りを

美しいと感じるのも、きっとその辺りに理由があるんだろうね」





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参考文献



・「香りの創造 調香技術の理論と実際」(フレグランスジャーナル社)

 著者:ロバート・R・カルキン/J・シュテファン・イェリネック

 訳者:狩野 博美

 (主に1〜10章より抜粋)


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